プロローグ ──3
学校から四駅、モダンなマンションの六階。
白い壁の部屋。
世界からは陽も落ちて、夕方の赤から夜の青に移ろう。
いつの間に寝落ちしてしまっていたのだか、カーテンもせずにあたしは横になっていた。
窓から差し込む街明かりで、部屋の中は薄灰色。
ここは────そうだ、昨日まで毎晩のように彼と交わっていた部屋だ。
学校から帰ってきたんだ、この部屋に。
程なくして、この部屋のあるじも帰宅する。
彼は帰ってきて早々に大股で寝室に押し入り、ベッドの上のあたしに被さってきた。
あるじこと鷲見星兎センセイは、感情を殺し切れない声で言う。
「……どういうことなのか、説明してもらうぞ」
両腕を突いてあたしが逃れられないようにし、上半身を浮かした姿勢からこちらを見下ろしてくる。
つまるところの床ドン。いいや、ベッドドンだ。
彼の青みがかった長い黒髪が、重力に導かれて真っ直ぐあたしの方に落ちてくる。
あたしと彼の息づかいで、その毛先がゆらゆらと揺らめく。
あるいは髪が揺れているのは呼吸のせいだけではなくて、彼が小さく震えているからかもしれない。
彼の心の震えがあたしの中の何かをくすぐってやまない。
「帰っていきなり襲ってくるなんて、盛りのついたケモノですか? センセイ」
「……千星が逃げないようにしているだけだ」
「冷静になってよ。逃げるなら初めからここに来ないってば」
「……くっ」
あたしの挑発に、彼は憤りの視線で射抜く。真っ直ぐに。
一生懸命に、あたしの頭の中を覗こうとでもいうかのごとく。
「ていうかあたしの目、ちゃんと見れるようになったじゃん」
「冗談で誤魔化すな。君は、お前は……何なんだ……!」
「何って……」
それはあたしが一番知りたい。
彼に対する自分自身、それを表す言葉をあたしは持ち合わせていない。
黙りこけていると、彼の方が言葉を紡ぐ。
「……君は……お前は、僕を騙していたのか?」
彼の表情に怒り以外の色が滲む。
それは、不信だろうか、後悔、あるいは悲壮なのか。
心の内から溢れようとする感情に蓋をして抵抗する姿は、どこか思春期の少年っぽさを連想させた。
実際はほぼ一回りも年上なのにね。
知りたい。
その心の奥に抱えているものが何なのか。
彼の心を知れば、あたしが彼に感じている不思議な感覚の正体もわかるのではないか。
そしたらきっと、あたしは自身の心にも向き合える。
彼にはあたし自身の心を映す鏡になってほしいんだ。
あたしは寝転んだまま、腕を上げて彼の顔に手を伸ばす。
そうして彼の目元に、頬に、耳に触れる。
さらり、と髪がなびいた。
「黙っていたことは謝るよおにーさん。黙って入学したことも、年齢のことも」
耳元で彼がベッドシーツを握る音がする。
「どうしてだ……僕を弄んで楽しんでいるのか」
「サプライズについては、そうかもね。おにーさんがどんな顔をするのか楽しみでさ。だけどね」
あたしは身体を少しだけ起こした。
すると彼は拘束を解き、ベッドに腰を下ろす姿勢になる。
あたしも座って話をすることに決め、正座して彼に向き直る。
「あたし、あなたに不思議な安心感を覚えたんだ。居心地が良くてさ。だけど本当の歳を伝えたら帰れと言われる気がして。だからとっさに誤魔化したんだ。ごめんなさい」
「……帰れとは言わなかったかもしれない。だけど……知っていれば抱きはしなかった」
「うん。だったら、やっぱり言わなくて正解だったよ」
へへっ、と少しだけ表情を緩めて見せる。
彼も釣られて笑ってくれないかと思ったけど、残念ながら硬い顔つきのままだった。
それを見てあたしは顔を下げ、深く息を吐いてからもう一度正面を向いた。
「おにーさんはあたしのこと、好き?」
「人間的な好意で言えばイエス寄り。恋愛的な意味で言えば申し訳ないがノーだ」
普段、少し間を置くような話し方の彼が、この問いには即答した。
きっと彼の中では既に回答が出ていたんだ。
「大丈夫。なんとなくわかってたからさ。ついでに言うと、あたしも恋愛的な感情は無いよ。少なくとも、今はね」
そう、今は。
「あたしは、おにーさんのことが……センセイのことがちゃんと好きになりたいんだ。最初は寝床と身体の関係だったけど、振り返ってみればこの数ヶ月間、私は幸せだったからさ」
偽りでも、嘘でも、ごっこ遊びでも。
彼と過ごした時間の中で感じていたあの安心感だけは本物だったから。
だから、あたしは欲をかいたのさ。
「あたしはセンセイのことをもっとよく知りたい。それに、同世代の子たちからも本物を学びたい。今までのあたしに足りなかったもの、全部欲しい。だから、編入を決めたこと自体は本気の決断だよ」
全てはたった一つ、『恋』を手に入れるために。
全部を知って、全部を自分に還元して、そうして手にしたただ一つが────できれば目の前の彼なら、なお嬉しい。
「……」
あたしの話を彼は黙って聞いていた。
軽く腕をクロスして、片手でもう片方の腕を何度かつねる。
それが、彼が本気で思案している時の癖だって、あたしはもう知っている。
間違いを恐れるから、できるだけ正解を引くために、考えながら喋る。
そんな癖のことも知っている。
けれど、普段の仕事のことも、他の人とどう話すのかも、これまでの生い立ちも、女の人の好みも、交友関係ですらあたしは知らない。
ならばせめて彼の近くにいたい、というのは自然な発想だろう。
幸いにもあたしにはその資格がある。
生徒としてなら同じ学校に通える。
それが、元の学校への復学でなく彼の学校へ行く理由だ。
「……君は」
何かを言わんとして、でも少し間を空けて。
いつもの感じで彼は話し出す。
「君は人間の感情を『実感』として得られないのか」
「……あ」
なんだかぴたりとハマる気がした。
「……無感情なわけではない。理解もしている。……ただ、特に他者との関係性における実感だけが欠けている」
「おおすごい。たぶんそんな感じ。なんだかおにーさん先生みたい」
「先生なんだが!?」
こほん、と小さく咳払い。
気持ちを切り替えて彼は続ける。
「そしてどうやら君は、欠けている実感を情報で補おうとしているらしい。知る事でようやく納得できる、と」
「確かにそうかも」
そういうところも、あたしが真人間じゃない証なんだろうね。
少しだけ沈黙が流れる。
だが悪くない沈黙だ。
あたしたち二人が互いへの認識を咀嚼するような。
やがて彼は長い髪を手ぐしで整えると、顔を上げ、街明かりの差す窓辺へと視線を泳がせた。
「⋯⋯僕らは似たもの同士なのかもしれない」
「あたしとおにーさんが?」
「欠けた部分が似ているんだと思う。⋯⋯普通の人たちが歩んだ道を、僕らは歩けない」
それは生い立ちによるものなのだろうか。
それとも生来の性質なのだろうか。
彼は続ける。
「⋯⋯僕も君も、基本的には他人を信じていない。ゆえに、僕は目を背け、君は人を試す。そしてしまいには⋯⋯僕は黙り、君は嘘をつく」
「行動が違うだけで、根っこが同じ?」
「そう解釈している」
彼にもあたしにも、暗い過去がある。
彼については詳しくは知らないが、何かはある。
ひょっとすると欠けた部分の形が同じだから、パズルみたいにはまるのかも。
「だから⋯⋯僕は君の行く末を見守っていこうと思うんだ。たとえどんな結果であっても」
「編入したことは許してくれるってこと?」
彼は頷いた。
少しばかり苦々しく口角を上げて、
「その代わり、二人の関係はあまり匂わせるな」
とあたしに釘を刺す。
「わかってますよー。あたしは知り合いの娘さん、だもんね、センセイ?」
「⋯⋯あの時思いついた言い訳だが、そういうことにしておこうか」
彼は深く息を吐き出した。
ため息の一つくらいつきたい気持ちは理解できる。
対して、あたしの気持ちはいたく昂ぶっていた。
これからの生活に期待が膨らむ。
禁断の関係を続けながら、本当の心を探すのだ。どんなに刺激的だろう。
できるならば彼にもこのドキドキを分かち合ってほしい。
あたしが恋をしたいのと同じくらい、彼にも恋をしてほしい。
「ねね、せっかくだからさ。気分転換と仲直りの意味を込めて、今から禁断の交わり、しちゃう?♡」
あたしは調子に乗ってそう言った。
両手を伸ばしてハグ待ちのポーズ。
しかしあたしは自分の判断が誤っていたのを知る。
彼は全然納得していないし、頑なで、真面目だった。
「しない。僕は生徒に手を出すわけには行かないし、ましてや未成年とだなんて、倫理どころか法に反している」
「え゛」
「え゛、じゃない。わきまえろ」
「え゛」
────こうして、あたしの新生活が幕を開ける。
夜の仲良し禁止という……重い代償と引き換えに。
[目標は新たに。関係は一歩後退──!?]
プロローグ────END
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