第二章 ──5 みぃつけた
戦慄する。
背すじが凍る。
恐怖する。
手が震える。
スマホを耳からゆっくりと放し、背後に意識を向ける。
そこには確かに、誰かの息遣いがあった。
はぁ……はぁ……。
それは、恐れおののくあたしの吐息か。
あるいは、背後にいる彼女のものか。
ゆっくり、ゆっくり。
あたしは背後を振り返る。
「あっ────あっ────」
語彙力の消失。
震えが、 い、 、
そこには。
「んー? あーしになんか用?」
「……」
ギャルだ。
ギャルがいた。
黒髪ギャルだ。
前髪ぱっつんで長いストレートヘアーの女子生徒。
黒髪の間からインナーカラーの真紅が覗く。
目元にほくろのある、たれ目がちでリップの豊かな美人ちゃん。
形のいい二つの膨らみに、キュッと引き締まったボディ、広めの骨盤からなめらかな曲線を描く腰のラインは自撮り動画の通りだ。
あたしは彼女を知っている。
いつだったか、話したことすらある、と思う。
うろ覚えだが面識はあるはずだ。
彼女の右上腕に目をやった。
写真部の腕章。
ずっと、文化祭の様子をカメラに収めていた女の子だ。
写真部と新聞部は部室が同じで、兼部している人も多い。
だから、取材のつもりでカメラを構えていると思っていたのだけれど、まさか。
「え、と」
あたしが言葉を詰まらせていると、彼女はにへら、と愉快そうに笑って言う。
「知ってるよ。あーし、知ってるんだから」
「な、何をですか」
「あはハハハはは! 何をって、それは────」
瞬間。スッと懐に滑り込むように接近してきた彼女は、あたしの耳元で囁いた。
「ねえ……楽しかった? ……あーしのカレシとの文化祭デート」
……ッひやああああああああッ!?
声にならない絶叫と共に飛びのいた。
シャレにならない当惑と共に慄いた。
全身が総毛立つ思いがして、あたしは無意識に腕やら太ももやらをめちゃくちゃに擦っていた。
殺意? 嫉妬?
掴みどころのない闇をそのままぶつけられたような感じ。
間違いない。
こいつが煌青のストーカーだ。
うなじのほくろとか動画の声と一致するかとか、そんな確認はもう必要無い。
あたしたちが炙り出したかったのはこの女だ。
距離を置いたあたしだが、直後に失敗に気付く。
渡り通路に向かえば良いものを、逆方向、袋小路へと退いてしまったのだ。
あたしの背後には舞台裏に続く扉しかなく、今その扉が開錠されているはわからない。
気づけばあたしはファイティングポーズをとっていた。
かかってこいや、ストーカー女。
「あははははッ! 面白いね、きみ! あーしがそんなに怖いの? ねえ、どうなの?」
腹を抱えて嗤う女。
耳障りな甲高い笑い声は、しかし人々の喧騒の中にかき消される。
「……念のため聞くけどあんたが煌青のストーカー?」
勇気を振り絞って問いかける。
声は震えてしまっていたかもしれない。
言ってやったぜ、という感傷と同時に、表情の消えた女を見て後悔の念も押し寄せてくる。
何せ、相手は血で文字を書き、住居に不法侵入し、自慰行為まで送りつけてくるような人物だ。
逆上させたら何をされるか。
「あーしが煌青くんのストーカー? はぁ? んなわけねーし。だって……あーしと煌青くんは、ラブラブなんだから!」
「千星ちゃん!」
女がまさに詰め寄って来ようとしたとき、体育館の中から八木が出てきてあたしの名を呼んだ。
こちらの異変に気が付いてくれたようだ。
女は八木の声に反応し、一瞬あたしから目を離す。
────今しかない!
逆に捕まえてやる、と意気込んで飛び掛かる。
だが相手はすんでのところで身をひるがえし、掴みかかった手を避ける。
あたしはつんのめって倒れそうになるのを必死で堪え、そのまま渡り廊下に向けて走り出した。
やっぱり逃げた方がよさそうだ。
「……ッ! 待ちなさいよこの泥棒猫!!」
背後で女の声がする。
構わず、走った。
脇目も振らず、遥果の横を通り過ぎて渡り廊下へ。
「待てって! 真宵先輩!」
八木の声が響く。
真宵というのは女の名前だろうか。なぜ知っている。
────そうだ、思い出した。
あのストーカー女、『友達が八木にヤリ捨てされた』って言ってた、あの時の三年の先輩だ。
八木について調べていた時の。
「きゃあっ!?」
「うわ、悪い遥果ちゃん! って、こら! 行くな!」
後ろで何が起こっている。
わからないが、きっと八木は真宵を取り逃した。
ならば、このまま振り返らずに逃げるしかない。
生徒たちの間を縫うようにして走る。
助けを呼びながら、半泣きで廊下を駆ける。
なになに、と気にする様子の連中も多いが、助けてはくれない。
男子が女子を追い回すならまだしも、今回は追う方が写真部の女子。
周囲には、きっと取材から逃げている女子生徒くらいにしか映っていない。
それとも、文化祭の余興だと思われたか。
「ちッ、切り替えろ、切り替えろッ……!!」
渡り廊下は一年、二年の教室棟を繋ぎ、本館まで続いている。
直進は……やめよう。
ここは真宵を撒くのがベスト……!
キュッと急ブレーキをかけたあたしは、一年教室棟の入り口ドアに飛び込んだ。
すぐさま階段を滑るように降り、中庭の方へ。
中庭の屋台の周りには人も多い。
タープを回り込むようにして相手の視界を制限すれば、ワンチャン逃げ切れるだろう。
「くっそ。なんでこんなことに!」
中庭を抜け切ると、再び急ブレーキをかけて左に曲がる。
グラウンドの脇の通路を本館に向かってひた走った。
今度は余計な小細工はせず、最短経路でドアの向こうへ駆け込む。
右折。
一本目の角をさらに曲がる。
現れた中央階段を一目散に駆け上がり、四階へ。
息なんかとうに上がっている。
だが気にしてなんかいられない。
灰色の風になって走った。
走れ、千星!
「────ッ、っぱ、ここでしょ!」
小さな小部屋の引き戸を開ける。
遮光カーテンの閉められた薄暗い部屋。
────生物準備室。
勝手知ったるセンセイの根城だ。
後ろ手に戸を閉めると、あたしは内鍵をかけて相手の侵入経路を断った。
一応気配を探ってみる。
……息を殺して、耳を澄ませて……。
うん、無事に撒けたようだ。
「た、すかったぁぁぁ……」
肺に溜まった熱いものを全部吐き出し、コーヒーの残り香漂う部屋の空気を一気に取り込んだ。
今になって疲労がどっと押し寄せる。
「……はぁ、はぁ」
肩で息をしながら、あたしは壁にもたれかけてずるずると床へ腰を落とした。
天井を見上げる。
照明も何もついていない、いつもの光景。
不意に、彼の声が聴きたくなった。
センセイは今でもうちの担任の女教師とお喋りをしているのだろうか。
そうだ、と思い立つ。
位置情報アプリを見れば、彼の動向もわかる。
緊急だって呼び出せば、今すぐここに飛んできてくれるかもしれない。
「あったま良い、あたし! さっそくセンセイ召喚スイッチを押しちゃおうかな」
「ねえ、それ押すとどうなんの?」
「えっとね、登録した相手に位置情報が────」
待て。
誰と会話しているんだ、あたしは。
ガタンと音を立て、あたしは立ち上がった。
慌てたからか壁で肘を打った。しかし痛みなんて気にする余裕はない。
生物室側の扉から現れた黒髪の女に、最大限の警戒をせねばならないからだ。
「あははは! びっくりした? 向こうの部屋の鍵、開いてたよ?」
「ばッ……うそ」
抜かった。
隣の部屋の鍵まで気にしていなかった。
廊下の気配を探っていた時には、すでに生物室に彼女がいたのか。
「ふふふふ……ねえ、子猫さん」
ゴクリ、と本当に音が鳴るくらいの唾を飲み込んだ。
ここは半密室。背後の扉の鍵を開けて飛び出そうにも、体力面で限界だ。
アプリを使うか?
いや、操作に慣れてない今、手間取っている間に何かされそうだ。
彼女が一歩、こちらに近づく。
それだけであたしはビクッと体が硬直した。
「……ねえ」
ああ。もう、息がかかるくらいの至近距離だ。
覚悟を決め、あたしは目をつぶった。
もうなるようになれ────!
「そのくらいにしておけ、宍喰」
突然、第三者の声が聞こえて、あたしはまぶたをおもむろに開いた。
生物室側の扉を開けて、黒髪の男性が歩いてくる。
彼が遮光カーテンを解き放つと、瞬間、世界が色づいた。
窓からの黄色い光を背にして白衣が揺れる。
本棚にある赤い背表紙も、窓際に置かれた観葉植物の緑も、置きっぱなしのコーヒーのボトルの青色も、この瞬間に目を覚ます。
彼は青みを帯びた黒髪の長髪を手櫛で掻き上げ、後ろ髪をヘアゴムで留め直す。
そして、優しい明るいブラウンの瞳でこちらを見つめ、ぎこちなく微笑んだ。
「セン────」
「あー! わしみんお疲れ! なになに? あーしを追っかけてきちゃった?」
ストーカー女、宍喰真宵はいの一番にセンセイに飛びついた。
あたしが煌青にしてやったみたいに、胸を彼の腕に押し付ける。
すると彼の肘のあたりは完全に谷間に収められ、彼女の膨らみはゴムまりのようにたわんで……。
「おい」
「うん? どぉしたの、泥棒猫ちゃん」
「き……」
「き?」
あたしは思いっきり空気を吸い込み、吠えた。
「貴様ああああ、ふざけんじゃねえええええ!!」
「ひぃぃいいいいいッ!?」
真宵はセンセイの腕を離すと、盛大にすっころぶのだった。




