第一章 ──20 君ってやつは
九月も下旬を迎え、いよいよ夏感も薄れてきた。
台風情報も度々目にするし、蝉ももう鳴いていない。
だけど昼間の気温は嫌になるほど残っていて……それはもしかすると、熱々のカップルが学校内でいちゃついているからかもしれない。知らんけど。
ひかりの告白成功のニュースは瞬く間に学校じゅうに広まった。
誰が言いふらすでもなく、二人が仲睦まじくしているから誰の目にも交際は明らかだったのだ。
はじめの頃は『どうせすぐ振られるでしょ』と言う意見は少なくなかったが、八木が思いの外入れ込んでいるということで誰もそんなことは口にしなくなった。
一方の、あたしは。
「だから、平方完成の時の係数の扱いが変なんだって。二乗のとこから括り出すと、後ろの項がこうなってこうで……」
「ひぃっ、千星先生厳しいよっ!」
まさに中間テストに向けて遥果をしごき倒している真っ最中である。
「ひかりの応援ばっかりしてて勉強してなかったのがくやまれるっ」
「他人のせいにしない。現にあたしは勉強してたし」
「あの状況の中でっ? つ、強すぎるよ千星ちゃんっ」
「いいから口じゃなくて手を動かす。こらそこ! 符号が違う!」
「う、うわああんっ」
自分の提出物を進めつつ、横目で遥果の解法を観察し、指摘する。
言っておくが勉強は私の得意分野の一つだ。
舐めてもらっては困るのだよ。
生きていく術、みたいな?
昔から『いい子ちゃん』じゃなきゃダメだったからね。
「それが終わったら英語もやるよ。単語チェックから始めるからそのつもりで」
「すぱるたっ!?」
遥果はうなだれるのだった。
──ひかりの恋愛相談以来、あたしと遥果はより仲良くなった。
友達枠、ではなく本当の友達みたいに。
依然としてよくわからない子ではあるものの、信用できる奴であることは理解した。
これからも、何かあれば真っ先に頼るのは彼女かもしれない。
「あのさ、遥果」
「なんでございましょうかっ、千星教官っ」
あたしは一つの決意を胸に、彼女に言う。
「テストが終わったらさ、頼みたいことがあるんだ」
◇ ◇ ◇
日が沈むと気温がぐっと下がるようになった。
風が吹くといっとう涼しい。
「秋はどこに行った」なんてSNSでは嘆く声もあるけれど、こう、気温差が出てくるのは秋の特徴な気がする。
学校から四駅、オートロックのマンション、六階の角部屋1LDK。
ベランダから外に出る。街明かりが点々と人々の営みを映す。
風が、心地いい。
「ただいま」
「あ。お帰りなさい、センセイ♡」
彼が帰ってきたのを確認すると、あたしはベランダから部屋に戻った。
用意してあった夕食をチンしてラップを外し、テーブルに並べていく。
今日のメニューはサバの味噌煮にきんぴらごぼう。
それから昨日の残り物のもやしのナムルだ。
「……本当にお前は家庭的だよな」
「でしょ? いい奥さんになれるかな?」
「なれるなれる。ありがとう。いただきます」
「むぅ。なんか、心こもってなくない?」
「こもってるこもってる。ありがとう。いただきます」
「えーん! おにーさんのスルースキルが上がってるよぅ!」
そんなこんなで楽しい夕食の時間なのである。
ちなみに夕食のときはテレビはつけない。
つける時もあるにはあるけど、基本二人でおしゃべりしてたいから消してしまうのが常だ。
あたしが学校に通い始めるまでは、彼の仕事の話だとかをよくしていた。
あたしが素性を隠していたこともあって、どちらかというとあたしが聞き専。
あたしが話すことといえば、夜のムードづくりの一環でエッチな話を持ち掛けるくらいだった。
でも最近では、彼があたしの日常の話を聞きたがることが増えたように思う。
勉強の話や文化祭の話、クラスメイトとの会話とか、ひかりたちのその後とか。
センセイは楽しそうに聞いている。
表情が変わらなくても、目の色でわかる。
食事を終えると彼が洗い物をしてくれる。
その間にあたしはシャツにアイロンがけ。
いつも通りの日常。
あたしの幸せな空間だ。
「……ねえ、センセイ」
一通りの家事が落ち着いた頃合いに、あたしは切り出した。
センセイはシンクのところで手を拭きながら「どうした」と一言返事する。
いつもならソファやベッドに腰を下ろす彼だけど、今日はあたしが何も言わなくてもテーブルのところに座り直してくれた。
二人が向き合う形で。
「センセイはさ、八木が『選択肢の違う自分だ』って言ってたじゃん。それはあいつの事情を知った今でも同じ感想?」
センセイは少しの思案の後、こう答える。
「……少し、思っていることと違ったかもしれないが、根源が似ているという感覚は変わらないな。女性不信の原因としては、彼の方がよほどつらかったかもしれないが」
「そっか。センセイもいろいろあったんだよね」
あたしと彼とが体の関係を結べたのだって、きっと奇跡に近い。
この部屋に来て数か月経ったあの日。
それまでの日々の積み重ねがたまたまうまく繋がって、あたしたちは交わった。
体の相性が良かったものだから、ずるずると続けられていただけ。
「あたしさ、決めたことがあるんだ」
「聞こう」
「うん。あたし……センセイの恋愛相談に乗ってあげたいんだ」
「……僕の?」
あたしは頷く。
彼はまだあたしの言いたいことが吞めていないみたいだけれど、あたしがもう少し踏み込んだ話を切り出すのを待ってくれていた。
「センセイは、今は恋愛が難しいかもしれない。だけど、今のセンセイを形作っている過去の恋愛があるんだよね。心にトラウマを作っちゃうような、過去の恋が」
センセイの目が軽く移ろう。
どこか遠くを見るような、懐かしむような顔をした後、彼は静かに目を閉じる。
「そうだな。……僕は過去に、忘れられない恋をしていた」
悲し気に震える声。
それを必死に抑え込んだようにこもった声だった。
「……あのな、千星。僕は昔────」
「待って」
彼が話をしようとするのを、止める。
ずっと彼から聞きたかった、彼のトラウマの根源。
女性の目を見れない。
人に踏み込もうとしない。
孤独を好み、人間よりも生き物と向き合っている方が良い、と生き方まで変えてしまった彼の心の闇。
やっと聞ける、彼の昔。
それを、止める。
あたしに生まれた新たな目標のために、今は彼の話を聞くべきじゃない。
「あたしはセンセイの恋愛相談に乗ってあげたい。だけど、今のあたしじゃダメなんだよ。ひかりたちは本人の強さがあるから何とかなったけど、あたしは何の役にも立てなかった。あの子たちは違うと否定してくれるけれど、あたしは納得できていないんだ。だから……今はまだ、センセイの力になれない」
「……そうか」
センセイがまっすぐあたしを見ている。
苦手なはずなのに、あたしの目を見て真剣に受け止めようとしてくれている。
ありがたい。
あたしは彼に、今も救われてる。
だからこそ宣言しよう。
あたしは、強くなると。
あたしは席を立つと、学校のカバンの中から紙の束を取り出した。
そのうち一枚を抜き取ってからセンセイに差し出し、元いた席へと腰を下ろす。
この紙は、あたしが学校帰りにコンビニでコピーしまくったビラだ。
あたしが強くなるために考えた、最強の舞台装置。
その宣伝のための案内状。
────『放課後恋愛相談室』。
「遥果に頼んだんだよ。これを学校じゅうに広める手伝いをしてほしいって。あたしはもっともっといろいろな話を聞いて、もっともっと人の役に立てるようになって、それで────センセイに恩返しをしたい。ずっとずっと強くなった未来のあたしが、センセイの抱えてきたもの、取り払ってあげるんだ。だから今は……少し待ってほしい。お願い」
センセイは少しだけまぶたを大きく開いて、きょとんとした様子で聞いていた。
だけど、少ししてから急に笑い出し、見たことないくらいに嬉しそうなカオをして言った。
「はははっ、なんだよ、君ってやつは、本当に。……ああ、いいだろう。その時まで待っているよ。いつかきっと、お前が自分自身に納得できるようになったら、その時に改めて話をしよう。よろしくな、千星」
差し出された掌を、あたしはそっと握り返す。
少しごつごつした、でも柔らかで優しい手。
ちょっとだけ冷たいセンセイの手。
この冷たさに、いつかあたしが温もりを贈ろう。そう誓う。
「えへへ、待っててね。セーンセイ♡」
いつかあたしが恋する人。
彼のことをもっと知る。
彼のことを救ってあげる。
これがあたしの新たなる目標だ。
◇ ◇ ◇
「それはそうとして、おにーさん。……しばらくしてないけど、溜まってたりしない?」
彼は握っていた手をゆっくりと放し、きょとんとした表情から徐々にジト目に代わっていった。
そして、少ししてから盛大にため息をついて、見たことないくらいに呆れた表情をして言った。
「……君ってやつは」




