第一章 ──7 あたしの過去
「待っててねセンセイ。あたしも今日早めに出るから」
センセイがゆっくりパンを齧っている間にあたしは急いで朝食を食べ終え、歯を磨き、髪を上げ、洗顔、化粧水、乳液、日焼け止め。
髪は前髪だけはしっかりめに、アイロンやスプレーでキメる。
後は最悪学校で手直しをするつもりで簡単にポニーテールにまとめた。
コンシーラーなどのメイク道具はポーチごとバッグへ放り込む。
「お待たせセンセイ! さ、行こう!」
「……『待っててね』から三十分近く経ってるが」
「いいじゃん、いつも必要以上に早起きなんだし」
準備のためや万一の渋滞に備えてセンセイはかなり早い時間に家を出る。
普段はあたしが後から電車で追いかける形になるのだけれど。
「……言っておくが、車で送っていくのは駅までだぞ」
「駅って学校近くの?」
「違う。ここの最寄りだ」
「え゛。車の中でメイクしようと思ってたのに」
「……一緒に登校なんてしたら誰に何を言われるかわからないだろ」
「早めに婚約を発表しちゃうとか?」
「しないし、そもそもしてないが?」
なんて会話をしながら部屋の鍵を閉め、廊下を歩き、エレベーターで一階まで下る。
学校から四駅、そこから徒歩十五分ほどの場所にある八階建てのマンション。
その六階角部屋1LDKがセンセイの部屋だ。
趣味が無いから家賃にお金を割けるらしく、なかなか綺麗な場所に住んでいる。
エレベーターの中で、あたしは言った。
「最初から生き別れの妹設定とかにしとけばよかったのに」
遥果からも、ひかりからも兄妹疑惑をかけられた。
絶妙な距離感や年齢差がそう思わせているらしい。
もしも兄妹ってことにすれば、もっと堂々と一緒にいられる。
一緒に暮らしていても問題ないし、揃って登校しても目立たないはずだ。
しかしセンセイは目を細めて軽く肺の空気を押し出してから、
「あのな。もし兄妹って話が広まるとだな……」
と切り出した。しかし。
「……いや、なんでもない」
突然、言葉を呑み込んだ。
「どうしたの?」
「……聞かなかったことにしてくれ」
エレベーターから外に出ると裏の通用口へと向かう。
普段より大股の彼を追って、あたしは小走り気味に駐車場まで移動した。
車のドアに手を掛け、助手席へと腰を下ろす。
シートベルトをしながら、あたしは再び彼を追求した。
「ねえ、話が広まると、何?」
するとセンセイは少し長めに目を閉じて瞬きし、こう言った。
「……色々とツッコまれてボロが出やすくなるだろ」
そうして車を始動させ、駐車場内を滑るように走り始める。
なんだか誤魔化されたようで腑に落ちない回答だ。
まあ良いや、とあたしは肩の力を抜いて深く息を吐く。
「……ところで琴宮」
「うん?」
「お前、八木以外の男子に告白されたことはあるか?」
どしたん藪から棒に……ってツッコもうと思ったけど、センセイの表情は割と真剣だ。
あれ、これ真面目な話?
普通に答えておこうか。
「えっとね。この学校に来てからは八木くらいだけど、前の学校では一回あったかな。あとは、元カレと────うわっと」
車が制動を強めにかけて、一瞬体が前に押し出されそうになった。
どしたん急に。
「……すまん、『止まれ』を見落としかけた」
「もう。気を付けてよ、びっくりしたぁ」
心臓が止まるかと思ったわ。
「それで元カレ以外だと────って、その表情は何、センセイ」
「……別に普通だが」
「……」
「……普通だが」
「……動揺してる?」
「してないが!?」
センセイのいつもの仏頂面が、さらに磨きがかかったみたいなジト目になっている。
こういうのなんて言うんだ、訝しげ、ってやつか。
「なんだよおにーさん。あたしのことめっちゃ好きじゃん?♡」
この際からかってやろうと煽るようなことを言ってみるのだが、彼は逆に冷めた反応を見せる。
「驚いただけだ」
「そうなの」
「……君は恋人など作らないタチだと思っていたからな」
なるほど、驚きのベクトルはそちらでございましたか。
「別に好きで付き合ってたわけじゃないよ。……家を出て、すぐの時の話だし」
「……」
「……」
楽し気な空気だったのに、一気に場が重くなった。
とかくあたしの過去の話題は気が滅入ることになりがちだ。
「……君が八木から交際を申し込まれたと聞いたときに思ったんだ。『恋が知りたい』という目的のために、君は不特定多数と関係を持つ手段を取るのではないかと」
好きでもないけど付き合ってみる、みたいな恋愛もあるだろう。
実際、クラスメイトの中にもそのパターンを経験している子はいたし。
交際経験から得られる恋の種みたいなものもあるかもしれない。
確かに恋という感情を知る方法としては一理ある。
「……ただ、それをすると君が壊れてしまう気がして」
「あたしの過去の罪に繋がるから?」
センセイはこくりと頷いた。
彼はあたしの辿ってきた道を知っている。
少なくともこの一年間をあたしがどう過ごしたかは、いつかの夜の営みの中で打ち明けた覚えがある。
「大丈夫だよセンセイ。あたしの世界はおにーさんと出会った瞬間から変わった。もう、自暴自棄なことはしないって決めたんだ」
「……君は突っ走るところがあるからな。自分を傷つけるような真似はしないでくれよ」
「はぁい」
突っ走っているつもりはないんだけどな。
あたしはその都度の最適解を選んでいるだけだ。
ま、過去のあたしが危なっかしいことを続けてきたのは事実だし、心配してくれるのはありがたいというものだ。
彼に恋心は無いかもしれないが、少なくともあたしを大切にしてくれているという証にはなるのだから。
「頼むからこれ以上僕に新たなトラウマを作ってくれるなよ」
「ふふっ、気をつけます」
「ああ……ほら、もう駅に着くぞ」
気付けば窓の外は駅近くの大きめの交差点。
どうやらタイムアップらしい。
「もお。家から駅近すぎ。センセイ、せめて次の駅くらいまでは乗せてってくれてもバチは当たらないんじゃない?」
「却下。……ここより先は自転車通学の奴らも増える。誰に見られるかわからないだろ」
「ちえー」
駅に近づくとただの住宅地はちょっとだけ都会じみた装いを見せる。
駅前にいくつかの飲み屋と大型チェーンのドラッグストア。
こうも朝早くだと一つも開いていなくて寂しげだ。
そんな小さな街のロータリーに、センセイは車を寄せた。
車から降りたあたしはぐっと伸びをする。
短い乗車時間だったけど、彼の隣はやっぱり居心地がいい。
「それじゃ、また学校でね。センセイ♡」
にへら、とセンセイに笑いかけてからドアを閉める。
彼はあたしに向かって軽く手を上げると、しっかりウインカーを点滅させながらロータリーを抜けていった。
あたしは日差しから逃げるように小走りで駅舎に駆け込む。
今すぐ電車に乗れば、普段よりずいぶんと余裕を持って登校できる。
できれば八木本人に接触する前に、周囲への聞き込みを済ませてしまおう。




