第8話 私は庇護なしで立てます
あの椅子が、空になって三週間が経った。
◇
ジークハルトは来なくなった。
「適切な距離を」と言ったのは私だ。望んだ通りになった。従者のハインリヒが週に一度、納品書のやり取りに来るだけになった。
ハインリヒは工房に入ると、毎回あの椅子をちらりと見る。何か言いたそうな顔をするけれど、何も言わずに帰っていく。
先週は帰り際に一度だけ立ち止まって、「閣下は──」と言いかけた。でも続きは出てこなかった。私も聞かなかった。
椅子を片付ければいいのに、と自分でも思う。
作業台の横に空の椅子があるのは場所の無駄だ。資材でも置けばいい。合理的に考えればそうすべきだ。
片付けていない。
理由は聞かないでほしい。自分でも分からないから。
朝起きて、顔を洗って、階段を降りて工房に入る。最初に目に入るのがあの椅子だ。ペンの音がしない。墨の匂いがしない。
三週間前までは当たり前にあったものが消えると、なかった頃より工房が広く感じる。
「先生、暖房炉の外殻の設計、見てもらえますか」
トビアスの声で作業に戻る。ありがたい。この子がいなかったら、空の椅子をぼんやり眺める時間がもっと長くなっていたと思う。
「先生、閣下はもう来ないんですか」
いつの間にか「怖い人」から「閣下」に昇格していた。
「……しばらくは来ません」
「ふうん」
トビアスはそれ以上聞かなかった。代わりに、設計図を広げた。
自動温度調整式暖房炉。新作の試作は佳境に入っていた。
魔石の出力を室温に応じて自動で増減させる仕組み。原理は前世のサーモスタットだが、この世界の魔石で再現するのは一筋縄ではいかない。温度の感知部と出力の制御部を連動させる回路の設計に、毎晩頭を抱えている。
でも、形になりつつある。
◇
博覧会事務局は、王都の技術院の隣にあった。
出展申請書を提出する。推薦人の欄は空白。御用達認定があれば推薦なしでも申請できる。
窓口の書記官が申請書と試作品を見比べて、眉を上げた。
「推薦人なしですか。珍しいですね」
「はい。自力で審査をお願いいたします」
書記官が試作品を手に取って、裏を覗き込む。魔石の配置。排熱溝。温度感知の仕組み。
しばらく無言で眺めた後、書記官の目つきが変わった。技術を見る目を持つ人間の、あの顔だ。
「……これは、面白い設計ですね」
一週間後。審査通過の通知が届いた。
推薦なし。コネなし。試作品の品質だけで。
通知書を開いた手が震えた。認定式の日に火傷した時とは違う震え方だった。嬉しくて震えるなんて、前世を含めても何度もない。
トビアスと二人で、工房の作業台に通知書を広げて眺めた。
「先生、すごいです! やりましたね!」
「うん。……うん」
二回頷いたのは、一回目は安堵で、二回目は別の感情だった。
この通知を見せたい人がいる。あの椅子に座っている人に、「見てください、自力で通りました」と言いたい。
──いや、やめよう。今はそういうことを考える時じゃない。
「トビアス、審査員の名簿ってどこに書いてあった?」
「えっと、通知の裏です」
裏返す。審査員は五名。技術院の学者が三名、貴族代表が二名。
貴族代表の欄に、見覚えのある名前があった。
リヒテンベルク侯爵。
カーライルの父親だ。
「先生? 顔色悪いですよ」
「……大丈夫」
大丈夫ではない。カーライルの父が審査員ということは、ローゼ寄りの判定をされる可能性がある。婚約者の実家だ。息子の面目を守るために、ローゼの側に立つのが自然だろう。
博覧会の場で「この技術はローゼのものだ」と異議を唱えられたら、面倒なことになる。
一瞬、怯みそうになった。
でも、作業台の端に目がいく。あの椅子。空のまま三週間。
あの人に迷惑をかけないために距離を置いた。あの人の力を借りずに立つと決めた。
ここで怯んだら、あの決意が嘘になる。
通知書をもう一度、表に戻す。「審査通過」の文字。
これは実力で取った。推薦もなく、コネもなく、試作品の品質だけで。
審査員が誰であろうと、良いものは良い。そう信じなければ、ここまで来た意味がない。
「トビアス」
「はい」
「博覧会まであと三日です。新作の最終調整、手伝ってください」
「もちろんです! 先生、頑張りましょう!」
この子の真っ直ぐさに、何度助けられただろう。
◇
フィーネの知らない場所で。
王都の外れ、フィーネ工房から通りを二本隔てた角に、小さな茶店がある。「ロッテの茶葉」という看板の、古い店だ。
店主のロッテは、三十年この場所で茶を淹れてきた。常連の顔は全部覚えている。だから、三週間前から毎晩同じ時間に来るようになった客のことも、すぐに覚えた。
背の高い、黒髪の男。仕立てのいい外套を着ている。いつも窓際の同じ席に座って、同じ紅茶を頼む。砂糖は入れない。ミルクも入れない。
そして、窓の外をじっと見ている。
視線の先にあるのは、通りの向こうに小さく見える建物の窓。夜遅くまで灯りがついている、あの工房だ。
灯りがついているのを確認すると、男はカップを空にして、代金を置いて帰る。灯りが消えていた日は──一度もない。あの工房のお嬢さんも、相当な働き者だ。
毎晩、同じことの繰り返し。雨の日も来る。席が埋まっていた日は、外の軒下で立ったまま窓の向こうを見ていた。
最近は、工房の周りを見慣れない警備兵が巡回するようになった。誰の差し金かは聞かないけれど、まあ、察しはつく。
ある晩、ロッテは紅茶のおかわりを運びながら、声をかけた。
「お客さん、毎晩ご苦労さまだね」
男は窓の外を見たまま、小さく頷いた。
「あの工房のお嬢さんのこと、気にかけてるんだろう?」
返事はなかった。でも、カップを持つ手が一瞬止まった。
ロッテは笑った。この手の不器用な男は嫌いじゃない。
「あんた、ヴァイスベルクのお方だろう。公爵家の紋章、外套に入ってるよ」
男がようやくこちらを見た。灰色の瞳。疲れた目。でも、悪い目じゃない。
「十年前に奥様を亡くされたんだってね。うちの常連に宮廷の侍女がいてさ、聞いたことがあるよ。流行病だったって」
男の指が、カップの縁をなぞった。
「それからずっとお一人だったのに、最近は毎晩ここに来て、窓の外ばかり見てる。──いいことだと思うよ、あたしは」
男は何も言わなかった。
カップを空にして、代金を置いて、立ち上がった。
「ご馳走様」
低い声。それだけ言って、夜の通りに消えていった。
ロッテは空いたカップを下げながら、窓の外を見た。
通りの向こうで、工房の灯りがまだ点いている。
「あのお嬢さんも大概だけどね。あんな遅くまで働いて」
呟いて、カップを洗いに厨房に戻った。




