第7話 閣下は私の何ですか?
ローゼが、黙った。
──という話を、市場で聞いた。
◇
トビアスが露店の片付けをしながら、興奮気味に話してくれた。噂の出所は、技術サロンに出入りしている職人の弟子仲間らしい。
「社交界の技術サロンで、あの伯爵令嬢が新作を発表したんですよ。新しい魔道具の設計だって。暖房用の、なんとかっていう」
「それで?」
「技術者の人が質問したんです。『魔石の結晶構造について説明していただけますか』って。普通の質問ですよね。設計した人なら答えられるやつ」
トビアスが大げさに間を取った。この子は話す時にいちいち演出をつける。市場の掛け声であれだけ声を張る少年だ、語り口にも力が入る。
「五秒くらい黙って、何も答えられなかったんですって。口をぱくぱくさせて、結局一言も」
ローゼ。
あの子は頭がいい。社交術も、人の心を読む力も、私よりずっと優れている。でも、魔石の結晶構造は、暗記した単語を並べるだけでは答えられない。原理を理解していなければ、突っ込まれた瞬間に詰まる。
「それで、婚約者の侯爵家の息子さんが庇ったらしいですけど──」
カーライルか。
「『彼女は緊張しているだけだ』って。でもそう言えば言うほど、周りの空気が冷えていったって。『じゃあなぜ自分で説明できないの』って顔をみんなしてたらしいです」
そうだろうな。庇い方を間違えると、かえって傷口が開く。
カーライルはいつもそうだ。優しさの方向を間違える。あの人の優しさは相手を守るためではなく、自分が「優しい人間でいる」ためのものだ。だから的を外す。
先日の夜会の帰り際、庭園でローゼが呟いた言葉が頭をよぎる。
──何も作れないの。
やっぱり、あれは本心だったのか。
◇
その日の午後。
いつもの椅子に座っていたジークハルトの様子が、おかしかった。
書類を捲るペンの速度がいつもより遅い。顎の線が硬い。目が紙面を追っていない。
何か考え込んでいる。
「閣下。今日はお仕事が進んでいないようですが」
「……議会の話だ」
ジークハルトが珍しく、聞いてもいないことを話し始めた。
「ヴァルデン侯爵という男がいる。私の政敵だ。議会で、私がフィーネ工房を不当に優遇している──いわゆる癒着だと、追及すると宣言した」
癒着。
あの夜会で貴婦人たちが囁いていた言葉と同じだ。あの時はジークハルトが黙らせたけれど、議会となれば話が違う。
「宰相が特定の商人を贔屓するのは、法に触れるのですか」
「触れる。利益供与の禁止規定がある」
胃の底が冷えた。
ジークハルトは、私の工房に通っている。毎週。椅子まで持ち込んで。御用達の推薦書も出した。夜会では私の前に立って貴族たちを黙らせた。
一つ一つは善意だった。でも並べてみれば、「特定の工房主への不当な優遇」と言われても反論しにくい。
「閣下。その追及は、私のせいですか」
「フィーネ殿のせいではない。ヴァルデンは以前から私を失脚させたがっていた。口実を探していただけだ」
口実。
私が、口実になった。
ジークハルトが書類を筒に片付け始める。今日は早い。
立ち上がって外套を手に取るジークハルトの背中を見ながら、口が動いていた。
「閣下」
「なんだ」
「閣下は、私の何ですか」
ジークハルトの手が止まった。
振り返った灰色の瞳が、私をまっすぐ見て──
逸れた。
「……顧客だ」
目を逸らしたまま、答えた。
顧客。
そうだ。この人は私の顧客だ。暖房魔道具を発注した、取引相手。それ以上でも以下でもない。
椅子を置いて、毎週来て、外套をかけて、焼き菓子を届けて、ドレスを贈って──全部、顧客としての行為。
そんなわけあるか。
なのに。
なのに、なんで目を逸らすんだ。「顧客だ」が本心なら、堂々と言えばいい。この人はいつも、事実を述べる時は目を逸らさない。逸らすのは、嘘をつく時だけだ。
でも、今はそれを追及する場面じゃない。
「では、顧客として。適切な距離を保ちましょう」
私の声は、自分で思ったより平坦だった。
「閣下がこの工房に通われることで政治的にお困りになるなら、納品は従者のハインリヒさんを通してください。私は閣下にご迷惑をおかけするつもりはありません」
ジークハルトは何も言わなかった。
灰色の瞳が、一瞬だけ揺れた。何か言いかけて、飲み込んだ。
外套を羽織り、扉に向かう。
「……分かった」
扉が閉まった。
椅子が残っている。
持っていかなかった。置いたまま帰った。
忘れたのか。それとも、わざと残したのか。
(……持っていけばいいのに)
空の椅子を見つめる。座面に、ジークハルトの体温がまだ残っているような気がした。気のせいだ。木の椅子に体温が残るわけがない。
胸の奥が変な感じだった。痛いのとは違う。何か、取り返しのつかないことを自分で言ってしまったような、そんな感覚。
でも、これでいい。
ジークハルトの政治生命を私のせいで潰すわけにはいかない。この人は、この国の政務を一手に担っている人だ。工房の一つより、ずっと大きなものを背負っている。
◇
その夜。作業台に突っ伏して考えた。
ジークハルトの庇護がなくても、私は立てる。
立てることを、証明しなければ。
あの人がいなくても大丈夫だと示すことが、あの人を守ることになる。
頭を上げる。壁に貼った暖房用の設計図が目に入った。
その隣に、新しい紙を貼る。
王立技術博覧会。年に一度、この国の技術者たちが作品を持ち寄って競う場。
御用達認定があれば出展資格がある。推薦は──要らない。自力で審査を通す。
ジークハルトの名前を一切使わずに、実力だけで。
ペンを取って、新作の構想を書き始めた。
自動温度調整式暖房炉。今の暖房の改良型。魔石の出力を温度に応じて自動で増減させる仕組み。前世のサーモスタットの原理を応用する。
難しい。今までの設計より二段階は複雑だ。
でも、これを完成させれば、誰も文句は言えない。癒着でも贔屓でもなく、純粋な技術力で認められた証になる。
これで勝つ。
誰の力も借りずに。
試作ノートに新しいページを開く。日付を書く。
手が動き始めると、胸の奥の変な痛みが少しだけ薄れた。作ることに集中している間は、余計なことを考えなくて済む。
あの椅子は、まだ作業台の横にある。
空のまま。




