第6話 閣下のお心遣いは、少々バレバレですわ
工房のドアの前に、見覚えのない白い箱が置いてあった。
大きい。抱えるのにひと苦労する程度には。蓋には何の印もない。差出人の名前もない。
泥棒が物を置いていくことはないだろうから、贈り物だろう。開けてみる。
薄紙の下から現れたのは、淡い青のドレスだった。
仕立てがいい。布地の質が、見ただけで分かるくらいに上等だ。袖口の刺繍は控えめだけれど丁寧で、全体の印象は華美すぎず地味すぎず。
当ててみると、サイズがぴったり。背丈も、肩幅も、ウエストも。
箱の底に、メモが一枚。
『宰相府の備品整理で出たものです。ご入用でしたらお使いください』
……備品。
宰相府の備品整理から、仕立ての良い女性用ドレスが、私にぴったりのサイズで、たまたま出てきた。
誰が信じるんですか、閣下。
◇
同じ日の朝。宰相府の執務室で。
ハインリヒは主人の背中を見ながら、ため息を噛み殺していた。
「閣下。あのドレスの件ですが」
ジークハルトはペンを走らせる手を止めない。
「備品整理で出たものだ」
「はい。それは承知しております。ところで閣下、採寸はどちらで?」
ペンが止まった。
「……以前、工房を訪れた際に目測した」
目測。目測で肩幅とウエストを。
ハインリヒは十年この人に仕えてきたが、主人のこういう方面の不器用さには毎度驚かされる。
「あと閣下、先日のお菓子の件ですが。私があの工房主殿の好みの焼き菓子を仕入先まで調べたこと、いつまで『たまたま持っていた』で通すおつもりですか」
「……仕事に戻れ、ハインリヒ」
嘘が下手すぎる。
十年前に奥様を亡くされてから、この方はずっとこうだ。感情を全部書類の山の下に埋めて、見えないふりをする。
でも最近は少し違う。あの工房に通い始めてから、閣下の目の下の隈がほんの少しだけ薄くなった。
ハインリヒは黙って一礼し、執務室を出た。
余計なことは言わない。見守るのが従者の仕事だ。
◇
夜会の会場は、貴族街の大広間だった。
王宮御用達に認定された工房主は、年に数回の社交行事に出席する義務がある。その最初の一回が、今夜だった。
あの青いドレスを着ている。他に選択肢がなかったとも言う。
それにしても、よく合っている。鏡に映った自分は、三ヶ月前に伯爵邸を出た時より頬がこけていたけれど、目の光は悪くなかった。
会場に入ると、視線が集まった。
好奇心と、いくらかの敵意。御用達認定と盗作疑惑の噂は、社交界にも広がっているらしい。
「あら、あの方が例の工房主?」
「元伯爵令嬢ですって。婚約破棄されたとか」
「宰相閣下の後ろ盾で御用達を取ったって話よ」
聞こえるように言われている。
平気だ、と思おうとした。思おうとして、やっぱり胃の辺りが少し痛んだ。社交界は戦場だ。武器が剣ではなく言葉なだけで、刺されれば血が出る。
グラスを手に取って、壁際に寄ろうとした。一人で耐えるつもりだった。
「──その発言の根拠を、文書で提出していただこう」
背後から、低い声。
ジークハルトが、いつの間にか隣に立っていた。
灰色の瞳が、中傷した貴婦人たちを静かに見据えている。
「宰相府は虚偽の中傷を看過しない。御用達認定は品質審査の結果であり、推薦の有無で左右されるものではない」
広間の空気が凍った。
宰相の公式な警告だ。これ以上口を開ける者はいない。
でも──それだけでは足りない。守られるだけでは。
「失礼いたします」
私は一歩前に出た。
「宰相閣下のお力で認定を得たのではないかというご懸念、ごもっともです。ですので一つだけ。──この会場にいらっしゃる方で、フィーネ工房の調理器をお使いの方はいらっしゃいますか?」
ざわめき。何人かが、気まずそうに目を逸らした。
「品質にご不満がおありでしたら、いつでもお返しください。全額お返しいたします。──ただし、お返しいただいた方には、今後の新製品はお届けできませんが」
沈黙。
使っているのだ。この場にいる貴婦人たちの家にも、うちの調理器が入っている。便利だから。安全だから。使用人が喜ぶから。
品質で売れたものを、癒着で否定することはできない。
ジークハルトが、かすかに──本当にかすかに、口の端を持ち上げた。
「閣下、お心遣いは感謝いたしますが、少々バレバレですわ」
小声で付け加えると、ジークハルトは目を逸らした。
「何のことだ」
知らないふり。この人はいつもそうだ。
◇
夜会の終わり際だった。
庭園に出て夜風に当たっていたら、背後に気配があった。振り返ると、ローゼが立っていた。
碧い瞳。月明かりに照らされた白い頬。相変わらず綺麗な子だ。
「お姉様」
「……ローゼ」
久しぶりに、妹の顔を正面から見た。
ローゼは笑っていなかった。いつもの完璧な微笑みがない。代わりに、見たことのない表情を浮かべている。
「お姉様がいないと、私──」
声が小さかった。
演技の時のローゼは、相手に聞こえるように声を震わせる。でも今の声は、聞かせるためのものじゃなかった。
「何も作れないの」
心臓が一拍、跳ねた。
風が庭園の薔薇を揺らしている。甘い香りが漂ってくる。こんな綺麗な場所で、こんな顔をするなよ、ローゼ。
それは本心なのか。それとも、また涙の演技か。
ローゼの目を見つめる。碧い瞳は揺れていた。でも涙は落ちない。いつもの「完璧な一粒」がない。
泣かないローゼを見るのは、初めてかもしれなかった。
分からない。
この子の本心が、私にはずっと分からない。
「……お元気で、ローゼ」
それだけ言って、背を向けた。
◇
帰りの馬車は、ジークハルトが手配してくれたものだった。一人で揺られながら、窓の外を見る。
何も作れないの。
ローゼの声が、頭の中で繰り返される。
あの子は、本当に何も作れなかったのか。私のアイデア帳を盗み見なければ、何も。
だとしたら、あの涙は──ずっと、自分に何もないことへの恐怖だったのか。
……でも。
馬車が石畳の上で揺れる。青いドレスの裾が、座席の上で広がっている。
あの人が目測で採寸したドレス。それを着て、あの人に守られて、妹と再会して。今日は色々なことがありすぎた。
同情はできる。理解もできる。でも、戻ることはできない。
あの家に戻ったら、私はまた透明になる。アイデア帳を差し出して、ローゼの影に戻る。
それだけは、もう二度と。
「私はもう、戻らない」
声に出して言った。馬車の中に、自分の声だけが響いた。
明日からまた、作る。暖房の改良型。新しい設計。トビアスに教えること。
それが私の答えだ。




