第4話 その椅子、邪魔なんですが
「先生、僕でも魔石を削れるようになりますか」
弟子入り三日目。トビアスは工具箱の前にしゃがみ込んで、真剣な顔で私を見上げている。
「なりますよ。手先は器用だし」
「本当ですか」
「ただし、削れるようになるのと、まともな製品を作れるようになるのは全然違う話ですからね」
トビアスがうんうんと頷く。
試用期間ということにしたが、この子は朝一番に来て夜まで帰ろうとしない。掃除も荷運びも文句を言わないし、教えたことは翌日にはできるようになっている。呑み込みが早い。
「先生、この溝は何のためですか」
「排熱経路。余分な熱をここから逃がすの」
「はー。道に側溝があるのと同じですか」
なるほど。そういう例えが出てくるのか。この子は頭の中で、自分の知っているものに置き換えて理解するタイプだ。
教えるのは楽しかった。前世でも後輩の指導は好きだった。自分の知識が別の誰かの手に渡って、そこからまた新しい形が生まれるかもしれない。そういう可能性を感じるのが好きだった。
◇
問題は、もう一人の来客だった。
ジークハルト・フォン・ヴァイスベルクは、いつの間にか毎週来るようになっていた。
名目は「納品の確認」。暖房用魔道具の試作経過を見に来るのだから、筋は通っている。
──通っているのだが。
ある日、ジークハルトが工房に来た時、片手に木の椅子を持っていた。
そのまま作業台の横──私の定位置から一歩ぶんだけ離れた場所に、黙って置いた。
「閣下。その椅子は何ですか」
「椅子だが」
「それは見れば分かります」
「書類仕事をする。宰相府より静かで捗る」
宰相の執務室より、魔石の粉が舞う工房の方が仕事が捗る。何を言っているんだ。
「邪魔です」
「邪魔にならないようにする」
灰色の瞳がまっすぐこちらを見ている。この人に「遠慮」の概念はあるのか。あるのだろう、たぶん。それを外に出す回路が壊れているだけで。
言い合っても埒があかないので放っておいた。
結果として、ジークハルトは毎週その椅子に座り、書類の山と向き合うようになった。ペンが走る音が、私の作業音に混じる。時々、壁に貼った設計図をじっと見ている。
「フィーネ殿、この設計図を参考資料として借りたい」
「どうぞ。写しですから」
ジークハルトが設計図を丁寧に筒に入れて持ち帰る。政務に活かすのだろう。魔石鉱山を持つ公爵なら、暖房技術の資料は実用的な意味がある。
トビアスが私の袖を引っ張った。小声で。
「先生。あの怖い人、毎週来るんですか」
「怖い人って言わない。宰相閣下です」
「えらい人なのに、なんであんな邪魔そうなところに座ってるんですか」
いい質問だ。私も聞きたい。
◇
異変が起きたのは、その週の終わりだった。
朝から立て続けに、商会の使者が訪ねてきた。
「申し訳ございません、フィーネ殿。今月末をもって取引を打ち切らせていただきます」
一社。
「事情がございまして──」
二社。
「誠に遺憾ではございますが──」
三社。
どの使者も目を合わせなかった。理由を聞いても曖昧に濁される。品質の問題でも、売上の問題でもない。
三人目が帰った後、扉を閉めて作業台の前に座った。
トビアスが不安そうにこちらを見ている。
圧力だ。
伯爵家──父か、ローゼか。「あの工房と取引するな」と商会に言えば、伯爵の一声に小さな商会は逆らえない。
三社が同時に切るのは、そういうことだ。
取引先からの卸売で月の売上の半分近くを賄っていた。それが全部消える。材料の仕入れルートも一つ潰れた。
父が。
自分の娘の工房を潰すために、手を回した。
胸の奥が、じくりと痛んだ。
分かっていたはずだ。あの人が私を見ていなかったことくらい、とっくに。
──でも。
「先生。大丈夫ですか」
トビアスの声で、止まりかけた思考が動き出した。
前世で、似たようなことがあった。大口の取引先に切られて、会社が傾きかけた。あの時、上司が会議室で言ったんだ。腕を組んで、天井を見上げて、ぼそっと。
──卸がダメなら、直接売ればいい。
企業に売れないなら消費者に直接売る。中間マージンが消えるぶん、一個あたりの利益はむしろ上がる。手間はかかる。でも手間なら、かければいい。
「トビアス」
「はい!」
「明日から毎日、市場に立ちます。あなたも来てください」
◇
翌日から、工房の営業形態が変わった。
毎朝、市場の露店を確保する。実演販売を続ける。修理の常連客には新製品も紹介する。
トビアスが勝手に考案した掛け声が、不思議と効いた。
「火が要らない! 煤が出ない! お子さんがいても安心!」
声がでかい。それだけで露店の前に人が集まる。声量は才能だ。
実演で鍋を温めると、足を止めた客が買っていく。一人が買えば隣の人も気になる。口コミが口コミを呼んで、市場での売上は日に日に伸びていった。
一週間後。帳簿を前にして、私は目を丸くした。
商会に卸していた時は三割の手数料を取られていた。直販ならそれがない。一個あたりの金額は小さいが、数が出る。
月の利益を計算し直すと──取引先を失う前より、増えている。
「先生、やりましたね!」
「……うん。やった」
笑ってしまった。伯爵家に潰されかけて、かえって儲かるとは思わなかった。
その週、いつもの椅子に座っていたジークハルトが、書類の手を止めた。
「取引先に圧力をかけた者がいるようだな」
知っていたのか。
「お気づきでしたか」
「三社が同時期に契約を切るのは不自然だ」
ジークハルトの声は平坦だった。いつも通りの抑揚のない声。でも、窓の外を見る横顔がいつもと違った。顎の線が強張っている。
「フィーネ殿の判断は正しかった。直販への切り替えは合理的だ」
「ありがとうございます」
ジークハルトが立ち上がり、外套を羽織った。
「……少し、調べることがある」
何を調べるのか。聞こうとして、やめた。
この人は聞かれたくないことには答えない。毎週通ってきてそれくらいは分かるようになっていた。
扉が閉まった後、空になった椅子を見る。
邪魔だと思っていた。ずっと思っていた。
なのに、空になると妙に目につく。書類をめくるペンの音がないと、工房が広すぎる気がする。
……来週は、お茶くらい出そうか。
「先生、あの怖い人帰りましたよ」
「だから怖い人って言わないの」
「でも先生、あの人が来るといつも機嫌よくなるから、怖い人が来るのはいいことだと思います」
機嫌がいい? 私が?
そんなことはない。断じてない。
「トビアス、排熱溝の仕上げがまだでしょう。戻りなさい」
「はーい」
背中を向けたトビアスが、小さく笑った気がした。




