第3話 どちら様でしたっけ?
王宮御用達。
その四文字が、寝ても覚めても頭から離れなかった。審査まであと一ヶ月。暖房用の試作を間に合わせなければ。
◇
「これが審査基準の資料だ」
ジークハルトが差し出した書類の束は、ずしりと重かった。品質試験、安全性試験、安定供給能力の証明。
ぱらぱらとめくりながら、頭の中で逆算する。試作の完成まであと二週間。性能試験に一週間。書類の準備に──
「フィーネ殿」
「はい」
「聞いているか」
顔を上げると、ジークハルトが書類ではなく別の紙を差し出していた。
「この国には発明登録制度がある。王立技術院に設計図と試作品を届け出れば、先行者としての権利が認められる」
前世で言う特許だ。それは欲しい。アイデア帳に書き溜めたものを正式に自分のものとして登録できるなら、これほど心強いことはない。
「費用は」
「金貨二十枚」
黙った。
市場の売上でどうにか食いつないではいるけれど、二十枚の余裕はない。材料費を削ったら試作が止まる。
「……もう少し、余裕ができてからにします」
ジークハルトは何も言わなかった。問い詰めもしなかったし、立て替えようかとも言わなかった。ただ小さく頷いて、「体調管理も仕事のうちだ」と付け加えた。
はいはい。
三日連続で徹夜しているのがバレているらしい。目の下の隈でも見たのだろう。
◇
ジークハルトが帰った後の午後。
また工房の扉が開いた。今日は来客が多い。
金髪が目に入った。
──あれ。
整った顔。穏やかな目元。見覚えはある。あるのだけれど、名前がすぐ出てこない。最近、魔石と設計図のことしか考えていなかったから、それ以外の情報が頭の隅に追いやられている。
「フィーネ」
向こうは私の名前を知っている。ということは、知り合いだ。
「久しぶりだな。元気そうで──いや、少し痩せたか」
金髪。穏やかな笑顔。侯爵家の息子で、確か──
「ローゼが心配しているんだ。やはり伯爵家にいた方が安全だし、暮らしも楽だろう。戻ってこないか」
ああ。カーライルだ。
元婚約者の。
工房の中を見回す彼の目に、かすかな憐れみが混じっている。狭い店内、散らばった設計図、魔石の削り粉が積もった床。令嬢が暮らす場所じゃない、と思っているのだろう。
私は手元の魔石を磨く手を止めないまま、彼の顔をもう一度見た。
カーライル。カーライル・フォン・リヒテンベルク。
合ってる。たぶん。
「あの」
「ん?」
「カーライル様……でしたっけ?」
沈黙が落ちた。
カーライルの顔から笑みが消えた。目が見開かれている。
「……フィーネ?」
「すみません、最近忙しくて。お名前がすぐ出てこなくて」
嘘ではない。半分以上は本当だ。この一ヶ月、朝から晩まで設計と試作と販売しかしていない。カーライルの顔を思い出す時間が、本当になかった。
かつての婚約者に名前を忘れられかけている。
それがどういう意味を持つか、カーライルにも分かったのだろう。唇が動いたけれど、言葉にはならなかった。
「ローゼをお幸せに。では、作業に戻りますので」
扉が閉まる音。
遠ざかる足音。
磨きかけの魔石に目を戻す。
(……カーライル、だった。うん。思い出した)
排熱経路の計算が途中だったんだ。えーと、溝の深さが三ミリだと不足するから、五ミリまで──
もう、あの金髪のことは頭から消えていた。
◇
夜。
日が暮れても、手は止まらない。蝋燭を二本目に替えた。
暖房用試作品の魔石配置がうまくいかない。調理器と違って出力が大きい分、放熱のバランスがシビアになる。扇状配置だけでは足りない。二段にするか、いっそ立体的に──
指が冷たい。季節が進んで、夜風が肌を刺すようになってきた。
鼻の頭も冷えている。作業台に向かう背中が丸まる。
──ふわり。
重みが、肩に降ってきた。
外套。厚手の、温かい布。革と、かすかな墨の匂い。
振り返ろうとした時には、もう作業台の端に湯気の立つカップが置かれていた。茶だ。それから紙包みが一つ。
足音が遠ざかる。
扉が、音を立てないように閉まった。
「……え?」
外套の裏地を見る。刺繍。ヴァイスベルク家の紋章。
閣下だ。いつの間に来て、いつの間に──
紙包みを開ける。焼き菓子だ。バターの香りがする素朴なクッキー。
一口かじって、手が止まった。
これ、前世で好きだったやつに似てる。
サクサクして、甘すぎなくて、仕事の合間にちょうどいいタイプの。
偶然かな。偶然だろう。
こんなこと気にしている場合ではない。暖房の試作がまだ──
温かい茶を一口すすった。
外套が、背中と肩をすっぽり包んでいる。墨の匂いに混じって、微かに香の匂いもする。この人の匂いなんだろう。
目の奥が、じわっと熱くなった。
疲労だ。寝不足だ。それ以外の理由はない。
焼き菓子をもう一枚かじって、設計図に向き直る。
外套は、朝まで肩にかけたままだった。
◇
その夜。フィーネの知らない場所で。
エーデルシュタイン伯爵邸の居間。暖炉の火が揺れている。
ローゼが父の袖を掴んでいた。
「お父様、お姉様がひどいの」
頬を涙が伝う。一粒だけ。いつもの、完璧な一粒。
「市場で売っているあの魔道具──あれは私のアイデアなのに、お姉様が勝手に商品にしてしまったの。私が先に社交界で発表したのに」
伯爵は娘の涙を見て、深く息をついた。
「あの工房を、止めていただけませんか? お父様のお力なら、取引先にお話しすれば……」
伯爵の中で、何かがかすかに軋んだ。
フィーネは──長女は、本当に妹のアイデアを盗むような子だったか。あの子は自分の部屋で一人、何か書いているだけの大人しい子ではなかったか。
でも、目の前で泣いているのはローゼだ。
亡き妻に似た、碧い瞳から涙がこぼれている。
「……分かった」
軋みは、その二文字で黙った。
◇
翌朝。
外套を畳んで紙袋に入れていた時だった。
ドンドンドン。
蹴破る勢いで扉が叩かれている。泥棒か。いや、泥棒はノックしない。
開けると、少年が立っていた。息を切らしている。痩せていて、服は継ぎはぎだらけ。だけど目だけがぎらぎら光っている。
「弟子にしてください!」
朝から何ごとだ。
「市場で先生の魔道具を見ました! あんなすごいもの、僕も作れるようになりたいんです!」
先生、と言った。この子。
「お金はいりません! ご飯だけ食べさせてくれれば! 掃除でも荷物運びでも何でもやります!」
少年の目を見た。
必死だった。どこにも居場所がない人間の、剥き出しの必死さだった。
伯爵邸にいた頃の自分を思い出す。
あの家に居場所はなかった。父はローゼしか見なかった。食卓に座っていても、私はいつも透明だった。
……ああ、まったく。
「名前は」
「トビアスです」
「トビアス。とりあえず入って、朝ごはん食べなさい」
少年の顔がぱっと輝く。
面倒を増やしてどうする、と思いながら、台所に向かった。卵と、昨日の残りのパン。
外套の返却は、もう少し後でいいか。




