【第三話】五番目の妻
廊下から数人のまばらな足音が聞こえる。それはどこか威嚇と威圧を感じさせるような乱暴なもので、北殿の人間が立てる足音ではないことは明瞭であった。
その足音の主が誰なのか、考えなくてもすぐ分かる。江迎たちは慌てて障子に向かって座り直すと、両手を前に付いた。その光景が面白いのか薄笑いで男は眺めていたが、文から「堤殿も」と急かされ、渋々見よう見真似のまま横に座って前に手を付いた。
「正里殿の使いだ、江迎殿は」
「はい、ここに」
「開けよ」
──なにが「開けよ」だ。ただの本殿の使いの癖にと、心の中でそう吐き捨てながら、江迎は床の木板の継ぎ目を見つめた。向こうから良いと言われるまで顔を上げることはできないのだ。
文が顔を伏せたまま障子を開ける。這いつくばって頭を垂れる筋合いなど本来無いが、命を天秤には掛けられない。しばらく顔を伏せていると、「もう良い」と声がした。ゆっくりと顔を上げる。やはり、突然江迎に嫁入りを伝えた時と変わらない、同じ顔ぶれが並んでいた。高慢で、自分が天上人かのような不遜な態度。
これが正里氏の使い人であるのだから、正里氏の人柄など会わずとも分かりきっていた。
「十二番所は三人であったはずだが、四人おるな」
指で一人一人を数える。「ひぃ、ふぅ、みぃ」の後に四人目の男を指差し、「おや」とわざとらしく首を傾げた。
「この男は十二番所の新しい勤め人でございます。江迎は大層働き者でしたから、私と遣い子だけではここは回りませぬ」
男たちは何も言わなかった。ちらりと「堤」だと名乗る男を一瞥し、興味など無いのかすぐに江迎の方へ視線を戻す。そして少しだけ苛立ったような声色で「早う立て」と言い放ち、前に着いた江迎の手の甲を軽く踏んだのだ。
とても嫁に来る者を迎える態度ではない。これからの江迎の本殿での生活が、この一瞬でまざまざと分かる。あまりにも傍若無人な振る舞いに怒りで顔を強張らせた文に対し、やめなさい、と目で制する。
「早う立たんか」
二度目の催促で、ようやく江迎は立ち上がった。自分だけが犠牲になるのなら、この目の前の男たちを今すぐにでも殴り飛ばせた。しかしそうはいかない。ここには、命を掛けても守りたい大切な人間が二人いるのだ。
江迎は毅然とした態度で、背を正して男たちを見た。凛とした立ち姿は頼もしく、力強い瞳には一点の曇りも無い。まるで好戦的とも捉えられるその視線に、男たちは居心地が悪いのか小さく舌打ちをして「可愛げない女め」と吐き捨てた。
「来い」
別れを惜しむ時すら与えられず、江迎は前と後ろに男に挟まれ、乱暴に背中を押される。文は目に涙を溜めて、男たちを睨んでいた。
「あの」
廊下を出たところで、今まで沈黙を守っていた山添が声を上げた。男たちは足を止め「何だ」とぶっきらぼうに答える。
「その子は、江迎は、本当に働き者で優しい子です。愛想が無いように見えることもありますが、とても素直な子です。自分の娘のように大切に育ててきました」
「だから何だ」
「その子が幸せであることが私達の願いです。どうか、どうか江迎をよろしくお願い致します」
再び山添が頭を下げる。続いて文も頭を下げた。堤氏を名乗る男は、顔を上げてじっと江迎を見つめている。
江迎にとって、山添は父のような存在だった。七歳の時に辺境の村から遣い子として招かれ、そこから十二番所でずっと働いてきた。山添は父で、文は弟。この十二番所は、家族以上の絆で結ばれていた。いずれは江迎が番所頭となって、山添は隠居をして、勤め人に上がった文がいて──。
そんな未来を夢見ていたのに、その夢はいとも簡単に他人に奪われてしまったのだ。
「それはこの女次第だろうが」
なにを分かりきったことを、と鼻で笑いながら、後ろに立つ男が再び江迎の背中を強く押した。段々と十二番所から離れて行く。後ろを振り返ろうとすると、「振り返るな」と怒られた。後ろ髪を引かれる思いとは、まさにこのこと。見慣れた一本松も井戸も、この長い廊下も、今日で全て見納めとなる。江迎は目蓋を閉じて、己の運命を受け入れる他無い。だが──。
『──運命に抗いもしない。ただ黙って受け入れて、川の流れに身を任せて死ぬことが、あなたの人生なのですか』
分かっている。分かっているけれどもと、男たちに見えないように唇を噛み締める。自分の人生は他人が簡単に蹂躙できるようなもので、贋作以下の価値で、そして。
いけない、こんな状況では思考はどこまでも卑屈に陥る。これ以上暗い気持ちになるくらいなら、何か少しでも明るいことを、希望を持てることを考えよう。希望を持てること、希望を持てることを──。
しかし、この先に希望などただの一つも無いことは明白である。
江迎はついに北殿を出て、裏門から本殿へと入った。ここが終の棲家であると、絶望を抱きながら美しく磨かれた玉砂利の上を歩く。遠くからは若い女たちの嗤い声が聞こえる。鼻に付く甲高いその声が妙に耳障りで、江迎は思わず耳を塞ぎたくなった。
(続く)




