【第二話】違う男
「寒いのう」
静寂の朝に、ぱちぱちと炭の燃える音だけがこの十二番所に響く。山添は火鉢の前からじっと動かず、手を擦り合わせながら身を小さく縮こまらせていた。歳を重ねて丸くなった背中が、さらに小さく見える。こんなにも年老いた見た目だっただろうかと、江迎は自分の羽織を脱ぎ、山添の背にそっと掛けた。
「おまえは寒くないのか」
「これくらいなら平気です」
二人で火鉢の前に座り、開いた障子の向こう側を見る。まだ暗い時間でも、北殿は少しずつ動き始めていた。中庭の一本松の下にある井戸には、既に各番所の遣い子が桶を持って五人ほど並んでいる。白い息が遠くからでもよく見えた。
遣い子とは、番所に勤める者の世話をする子どものことである。
各番所に一人、大きい番所なら二、三人ほど仕え、食事や洗濯、時には仕事の使いを頼まれることもある。誰でもできる仕事ではあるが、誰でもなれるわけではない。それなりの身分が必要である。それは、遣い子がいずれは番所勤めになれるからであり、だからこそ、それ相応の身分が必要なのだ。
十二番所の遣い子、文も、ここから少し離れた村頭領の末子だった。
長男が頭領の後を継ぎ、次男や三男は嫁を貰うか、他所の頭領の娘に婿入りをするのが通例である。四男以降は婿入りも難しく、かと言って嫁が来ることも無い。地位があるからこそ他所の娘の親である頭領は、相手が四男以降ならば縁談を断る。四男以降と結ばれたところで、娘が幸せにはなれないのが目に見えているからだ。
文の上には三人の兄がいた。十二番所にて当時管轄していた村の頭領から何度も懇願され、山添は根負けし渋々文を遣い子に引き取ったのだ。
「こんなに優しくて器量が良いのに、婿にも行けず嫁も取れずでは、私は死んでも死にきれない」と、頭領の大袈裟な泣き声を、江迎は今もまだ覚えている。よほど大切に育てた子どもなのだろう。大きな愛情を受けて育った文はとても優しく聡明で、他の番所の少し捻くれた遣い子たちとは大違いだった。
欲は無く、穏やかで、謙虚でありながら場を和ませる会話ができる。それでいて美しい顔立ちの文には、男女問わずよく恋文が届く。それを受け取ると、困った顔をしながらも必ず返事を書いていた。『──猫が悲しむのでごめんなさい』と一筆添えて。
猫とは、この十二番所の床下に居着いた野良猫のことである。文以外には警戒しているのか、江迎や山添が「ちっ、ちっ」と呼んでも知らん顔である。文が誰よりも早く起きる理由は、猫の世話があるからなのだ。
「おはようございます」
井戸に並んでいた最後の遣い子が桶に水を汲み終わった頃、明るい声が十二番所に響いた。文が飯炊所から、二人分の朝飯を運んできたのだ。
「いつもすまないな、たまにはお前が先に食べてもいいんだぞ」
「遣い子ですから、そんな訳にはいきません」
江迎と山添は膳の前に座り、並べられた器をじっと眺めた。重々しいため息と一緒に「また汁と野菜の切れ端か」と呟いた山添を諫めるように、肘でつつく。前よりずっと貧相になった飯のせいか、あれだけ恰幅が良かった山添の身体は、ここ最近ですっかり細くなってしまった。飯炊所が一括して四殿の飯を作っているから、文に言ったところでどうにもならない。飯炊所に文句を言ったところで、「本殿の人間に直接言ってくれ」と門前払いをされるのは目に見えていた。
「お前が今日嫁に行くのに、頭付きの魚すら出すことはできないのか」
「ああ。以前中庭で魚を焼いて、本殿から大目玉を食らいましたね」
「遠い昔の話だよ」
腕を組んで、懐かしそうに上を向く。まだこの山河城がまともだった頃の話。山添がお堀で釣った魚を北殿の中庭で焼いて、小火かと思った本殿の守番が血相を変えて駆け付けた。かなりこっぴどく叱られたが、江迎にはそれがとても面白く映り、しばらくの間は思い出しては腹を抱えて笑っていた。
「今、同じことをやったら打ち首だろうな」
「でしょうね」
文が最後に自分の膳を運んできた。もともと遣い子の飯は番所の者が全て食べ終わってからであり、部屋の隅でかき込むように食べなければならなかったが、そんなのは可哀そうだと山添の鶴の一声で、この十二番所だけは一緒に並んで食べるようになった。
その習慣は、江迎がここの遣い子であったときにできた話だ。
江迎の幸せは、山添の番所で働けたことに違いないのだ。それは文も一緒だった。
「まさか、待ってくださったのですか」
「そりゃあ待つさ。今日で江迎と並んで食べる最後の飯だぞ」
「そうですね、寂しくなりますが」
質素な朝飯と、浮世離れした貰い物の高価な湯呑。既に茶は飲み頃になっていた。少し薄めの茶は、塩辛い漬物に合うようにと文が淹れたもの。
もう飲むことができないのだと思うと途端に寂しくなり、江迎は鼻の奥がツンと痛んだ。それで泣かないようにと大きく深呼吸をして悲しみを吐き出し、ゆっくりと嚙みしめるように箸を進めた。いつもは食事中によく喋る山添がずっと黙っているし、文は途中から鼻を啜って泣いていた。
今日で最後の食事なのに、全く味がしなかった。
昼前には本殿の使いが迎えに来る。だがその前に、江迎には大きな仕事があった。
「そろそろ来ると思うのだが」
山添がそわそわしながら中庭を何度も覗いている。あまりにも落ち着きがないために、「座ってください」と文からも叱られる始末。それでも、「迷っただろうか」「まさか日にちを間違えて伝えたのだろうか」とずっと独り言を止めない。完全に仕事の手が止まり、その皺寄せが江迎に及ぶ。最後まで仕事をした方が性に合っていると言ったのは江迎だが、それとこれとは訳が違う。
「何度か来たことがあるでしょうから、迷うはずはありませんよ」
「そうは言っても心配なのだよ」
今日、江迎に代わって新たに十二番所に勤めに来るのは、「堤」という男だった。
十二番所が管轄する村の頭領の五男であり、ここに村人帳簿を何度か持ってきたこともある。大柄なわりには病弱で、優しそうな男だった。五男だからか、それとも頼りないその見た目のせいか、縁談を何度も断られているという。
どうせ一緒に働くなら知っている顔が良いだろうと、江迎の嫁入りが決まってすぐ、山添が直々に声を掛けたのだ。
「駄目だ、待ってられん」
膝を叩いてそう言うや否や、山添は草履を履いて中庭を駆けだした。
「どこに行くのですか」
「北門だ」
砂利の上を走るたびに、蹴り上げた小石が跳ねる。ぱちぱちと石がぶつかる音が遠くに聞こえたところで、江迎は困ったように文を見た。文は眉を下げ、首を横に振る。「今日は仕事になりませんよ」と諦めるようにそう言うと、開けっ放しの障子をゆっくりと閉めたのだった。
少し待ったころで、山添の声が聞こえてきた。「待っていた」だの「遥々遠くからすまない」など、朝の静けさはどこへやら、楽しそうな声が近付いてくる。どうやら堤という男を迎えに行けたようだ。
二人分の砂利の音を聞きながら、少しでも仕事を片付けようと江迎は筆を進める。昨月亡くなった村人の数を確かめ、税を改めて計算する。ちょうど、この堤という男の村の税を算出していた。
「ほらほら、上がって」
障子の向こうで、二人分の影が見える。一人は、小柄な山添のもの。もう一人は──。
江迎はその影を見て、少し違和感を抱いた。
堤という男は、とても大柄な男だった。上背ではなく、横に大きい。『そのくせ、すぐに流行り病にはかかるんだから困ったものだ』と、頭領がよくぼやいていたのを思い出す。
障子の向こうの影は、妙にほっそりとしていた。
「ありがとうございます」
声が聞こえる。堤という男の声は、どこか間の抜けた高い声のはずだったが、今聞こえた声は低く、妙に落ち着いた声だった。ぼけた山添が間違えて赤の他人を連れてきたのではないかと、ちらりと文を見てみる。しかし文は特に何も思っていないようで、茶を淹れながら「久しぶりに堤殿に会いますね」などといつものように笑っていた。
「ささ、中へ」
ゆっくりと障子が開き、先に山添が入る。そして次に入ってきたその男は──江迎の知らない男だった。背が高く、狐の毛色の長い髪の男。通った鼻筋に流れるような眦は、とても冷たい印象を与えた。美丈夫と言えば聞こえは良いが、この世の人間ではないような異質さがあり、まるで妖怪のようだと思った。
なんにせよ、である。
なんにせよ、この男は堤殿ではない。
「お茶をどうぞ」
「この子が淹れた茶は絶品なんだよ」
戸惑う江迎をよそに、二人は当たり前のように「堤」ではない謎の男を歓迎する。二人は間違いなくこの男を「堤」だと思っている。それとも自分がぼけてしまったのか。何かの悪戯なら、早く白状してほしいと願った。
「山添殿、文」
楽しそうに談笑する三人の前に立ち、江迎はゆっくりと男を指差した。
「その方は、堤殿ではありませんよ」
その場がしん、と静まり返る。にこやかに湯呑みを受け取ったはずの男が、一瞬だけ、じろりと江迎を睨んだ。その冷たい視線に思わず怯みそうになるが、それでも、撤回することはできない。
男は不敵な笑みを小さく浮かべたあとで、「江迎氏は本殿への嫁入りが嫌で、狂ったふりをしているでしょうか」と二人に問うたのだ。
「堤殿、そういうことはここでは言ってはいけません! 」
慌てて小声で文が諫める。どうして、と無垢に尋ねる男に「監視されているからだよ、ここでは本殿の人間を批判してはいけない」と、真剣な顔で山添が言った。
「分かりました。つまり、本殿は狂っている、と」
真っ青になった文は、廊下に誰もいないことを確認すると、慌てて障子を閉めた。幸い、まだ昼の鐘突の前だから廊下にも中庭にも誰もいない。
「狂った所に好き好んで嫁に行く貴女も、さぞ狂っているのでしょうな。お似合いの場所ではありませんか」
江迎は、身体中の血が頭に昇る感覚が分かった。唇を強く噛み締め、目蓋を閉じて己の怒りが鎮まるのをじっと待つ。
江迎が知っている堤殿は、こんな挑発的な物言いをする男では無かった。何も謝ることは無いのにいつも申し訳なさそうに平身低頭で謝りながら、村の帳簿を持ってくる少し頼りない男だった。
「私は、私達は、江迎殿を行かせたくはないのですよ……」
気まずい沈黙を破ったのは文だった。悲痛な面持ちで呟いた言葉は、この部屋以外の誰にも聞こえてはならぬと思ってか、とても小さな声だった。
「でも断れば殺されるのです。それだけではありません。同じ番所の人間も追い出されるか、殺されます。江迎殿はそれを危惧して、身を差し出したのです。本心は行きたくないはずです」
「ほう。しかし本殿勤めの奥方となれば、大変名誉なことではございませんか」
「江迎殿は、五番目の妻として行くのです。五番目の妻がどういう扱いを受けるのかなんて、堤殿にも分かるでしょう」
文の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。腹に積もった全てを吐き出すかのように、言葉が溢れる。誰かに聞かれていたら、きっと打ち首は免れない。だが、山添はそれを止めなかった。
「嫁入りをすれば、もう本殿からは出られません。親が死んでも、その亡骸にすら会わせて貰えないのです。本殿を出ることができるのは、死んだときのみです」
堰を切ったように、文の次から次へと涙が溢れる。自分のことをここまで案じてくれた人間がいたことに、今まで本音を隠して我慢をしてきた江迎も、自然と涙が溢れた。
「もう二度と会うこともできないのです」
山添が「もういい」と、文の背中に手をやった。十二番所はしんと鎮まり、障子の向こうからは鳥のさえずりしか聞こえない。昔は賑やかだった北殿も、今は水を打ったように静かだ。誰も余計な事など喋れないから、ただ黙って働くのみ。
「運命に抗いもしない。ただ黙って受け入れて、川の流れに身を任せて死ぬことが、あなたの人生なのですか」
男の言葉は江迎の核心を突いた。しかし、抗う術を知らない。力も無い。江迎は、ただの普通の番所に勤める女であり、才女でも、特段誰もが振り返る美貌を持っているわけでもない。だからこそ自分が選ばれる理由が分からない。青天の霹靂とはまさにこのこと。突然使いが来て、一月後に正里氏への嫁入りを伝えられたのだから。
「そう言うな、堤殿。こんなに高価な焼き物を嫁入りの礼にと贈ってきたのだ。きっと正里殿は良い夫のはずだ」
「高価、ですか」
文から手渡されていた湯呑みを、男はじっと見つめる。中の茶はとっくに冷たくなっていた。
「西の名工が焼いたものだ。正里殿の遣いがそう言っていた。裏に刻印も入っているだろう」
男は茶を飲み干すと、空の湯呑みを文に手渡した。そして少しだけ間を置いて、ゆっくりと江迎の顔を見ながらこう言ったのだ。
「それ、贋作ですよ」
三人は言葉を失った。
遠くから三人ほどの群れた足音が聞こえる。
(続く)




