【第四話】人違い
実のところ江迎は一度だけ、本殿の中に足を踏み入れたことがある。
それはまだ王が病に伏せる前の話だ。
以前は新年に四殿各番所の頭が本殿の大広間に集い、王の言葉を戴くといった習わしがあった。
例年は山添が行くのだが、ちょうどその時は腰を痛めて寝込んでおり、代わりに江迎が本殿へと足を運んだ。
厳かな本殿は重厚な空気が漂っており、時折すれ違う本殿の人間は『厳粛』という二文字がぴたりと当てはままるような出で立ちだった。ある程度のことは物怖じしない江迎も、その時はやけに緊張したことを覚えている。あくびどころか、自分の息遣い一つにもやけに気を遣い、北殿に帰った頃には満身創痍となって、山添の横で同じく寝込んでしまった。
だからこそ、分かる。あの頃の本殿を見ていたからこそ。少なくとも、今のように派手な身なりの女たちが世間話をしながら闊歩して良い場所ではなかった。本来の本殿は、俗世から切り離された仙界のような場所であったのだ。
本殿の敷地は広い。目的地までの通りは迷路のように曲がりくねり、どこを歩いているのか皆目検討もつかない。同じところを堂々巡りしている感覚だ。以前、ここを訪れた時は案内人がいて、彼を先頭に集団で群れて歩いたから辿り着けたが、こんなにも入り組んでいたのだろうかと疑問を抱いた。
相変わらず前と後ろの男は、江迎を挟む形で世間話をしている。酒の話、金の話、下衆な噂話、女の話。こんな人間が本殿で働いているなどと信じたくは無かった。
しばらく歩いたところで、とある屋敷に辿り着く。立派な総門の天辺に鬼の首の焼き物が飾られており、目玉がぎょろりと下を向いている。鋭い牙は今にも誰かを噛み付こうとしており、その生々しい様に思わず息を飲んで見入ってしまうほどだった。
「入れ」
後ろからどやされ、総門をくぐる。ここが刑部主の屋敷であることは、なんとなく分かっていた。塀越しに「ああ、正里様」と、間の抜けた女のよがる声が聞こえてきたからだ。真っ昼間からお盛んなこと、仕事はいつしているのか。それとも上に立つ人間は顎さえ動かせば良いのかと、江迎は呆れた。
とりあえず、その御尊顔だけでも拝んでみたいと思っていたが、男たちは屋敷には上がらず庭の裏へ回る。なるほど、五番目の妻ともなれば表口からは入れないということかと解釈した江迎は、黙って男の後ろへとついて歩く。
裏庭は庭木の手入れも忘れ去られたのか、雑草が高く生い茂り、鶏小屋や馬小屋などの家畜小屋が並んでいた。あれだけ使い人がいるのに、この荒れ様である。
「ここだ」
到着した場所を見て、江迎は目を疑う。
そこは今にも壊れそうなほど朽ち果てた小屋であり、二畳ほどの広さしかなかった。中は黴臭く、割れた茶碗や読まなくなった書物が無造作に投げ込まれている。
例え五番目であっても、本当に妻として呼んだのだろうか。下僕として呼んだのではないかというほどの、あまりにも劣悪な待遇に言葉を失った。
だが、贋作の湯呑みを平気で渡してきた男だ。もしかすると、そういう役目として呼んだのかもしれない。王が病に伏して以降の本殿の嫁事情は、自殺した南殿の娘も含め、謎に包まれている。
「俺たちは正里殿のところへ戻る。最後に聞くが、おまえはおぼこか」
「おぼこ? 」
「男と寝たことはあるか、と聞いている」
男と寝たこと──ある。
文と山添と三人で、明朝までに終わらせなければいけない仕事を夜通しして、明け方に倒れるように十二番所で三人並んで眠った。だが、男が聞いている「寝た」は、これではない。
男性と交わったことがあるか、という意味だ。
処女かどうかを尋ねたのだ。江迎は七歳でこの北殿に上がってから、仕事一筋。色恋沙汰とは無縁の生活を送ってきた。だから当然、「ありません」と返す。
「だろうな、とは思っていたさ。可愛げがないからな。でも良かったじゃねぇか、初物なら、一回は相手をしてもらえるな」
そう言うと下品な笑い声を上げながら、男たちは道具小屋を後にした。
江迎は小屋の押戸から空を見上げた。先程昼の鐘突があり、今は昼飯の時間だ。正里氏の屋敷からは焼き魚の良い匂いが漂う。その匂いを嗅いで、山添が中庭で焼き魚をして怒られたことを思い出し、寂しくなった。
山添の項垂れた背中が想像できる。文はまだ寂しがっているだろう。「堤」と名乗るあの男は──どうだろう。結局謎は解決できぬまま別れたことで、それが唯一の蟠りとなってしまった。
あの男は堤殿では無いのに、なぜ山添と文は当たり前のように接したのだろう。面影など一つも無いのに。それとも本当に私がボケたのだろうかと、江迎は手の甲を強くつねる。しかし、ただ痛いだけで、それが現実であることは紛れもない真実であった。
──あれはもしや、堤殿に化けた狐なのかもしれない。
今はもう確かめる術は無いが、それなら道理が合うはずだと、無理矢理自分を納得させる。
気付けば夕刻になる。結局昼飯は運ばれなかった。北殿ならば今の時間は勤めを終えて、部屋中乱雑に広げた紙を山添と二人で片付ける頃だ。その間、文が飯炊所から夕飯を運ぶ前に茶を淹れてくれる。もう戻れないあの頃を嘆いても仕方がないが、暇を持て余し、嘆く時間しか与えられない。
遠くで鴉の鳴き声を数えながら、もうじきここも暗闇に落ちることを悟る。燭台の明かりの一つも無い。唯一の頼りは月の光だけになるだろう。押し戸から見える群青がかった茜色の空がやけに美しく、この悲惨な現状との違いに嫌気がさした江迎は、支え棒を外して押戸を閉めた。眠れるなら寝てしまおう。それなら、余計なことも考えなくて良いはずだ。
それなのに、建付けの悪い戸の隙間からは昼間とは別の女の嬌声がずっと聞こえてくるものだから、江迎はそれが気になってしまい、その晩は一睡もできなかった。
そして夜が明ける。明け方に少しだけ眠りについた江迎だったが、近くの小屋から聞こえた鶏の鳴き声ですぐに目覚めてしまった。押戸の隙間からは薄明かりが見える。今日も昨日と同じような一日を過ごすのかとうんざりしながら、ゆっくりと身体を起こして大きく伸びをした。終わらない仕事以外で板張りに寝たのは久しぶりだったため、体中が痛む。
しばらく床でぼんやりとしていると、砂利を踏む足音が遠くから聞こえてきた。その音は徐々に近付き、そして、この小屋の前でぴたりと止まった。ひとり分の足音であった。
「いるか」
戸の向こうから聞こえる男の声。昨日の正里氏の使いの声ではない、聞き馴染みの無い声だった。憂鬱な気持ちであったが、居留守や寝たふりを使うには無理がある状況であったため、「はい」と素直に答える。すると扉がゆっくりと開き、一人の男が足を踏み入れた。
「よく顔が見えないな、もう少し寄れ」
確かに、こんな暗闇の小屋の中、しかも押戸を閉めてしまえば目を凝らしても何も見えない。江迎は寝乱れた襟を正すと、ゆっくりと扉に近づいた。江迎の方からは、男の顔はよく見える。荒々しい気性がそのまま顔に出たような男だった。おそらくこれが刑部主である正里氏なのだろうと思った。どこか陰湿そうな顔立ちでもあり、偽物の焼き物を押し付けそうな顔だと一人納得した。
「おや? 」
しかし男は首を傾げる。そして江迎の顔を舐めるように何度も、何度も覗き込む。さすがに居心地が悪くなり顔を背けようとすると、顎を掴まれて再び真正面を向かされた。伸びた爪が食い込んで痛い。
「違うな」
何が、とは聞かなかった。いや、聞けなかった。その代わり、顎に食い込む爪の力が強くなる。皮膚が抉れるほどの力加減に、思わず顔をしかめた。
「十二番所の女は二人いるのか」
この男が何を言っているのか、理解ができなかった。ただ一つ分かるのは、十二番所の女は江迎ただ一人だけということ。
「私だけです」
「いや、俺は確かに見た。十二番所を出入りする、後ろに一つで束ねた髪の明るい女を」
江迎の髪は夜の闇のような黒色。明るい髪色ではない。だが江迎には、ひとつの可能性が脳裏に過ったのだ。
それは、文だった。
もちろん、文は男だ。だが、顔付きは女のように艶があり、後ろに結った髪は稲穂のように明るい色である。他の番所の女だけでなく、男からも声を掛けられることが多々あった。女と見間違う十二番所の人間は、文しかいない。
だが、江迎は文の名前を決して出すまいと思った。名前を出してしまえば、連れ去られることは明白である。そして何より、本殿の人間は四殿に滅多に訪れないはずなのに、なぜかこの男は十二番所を訪れた事実がある。嫁入りの焼き物を渡す前、北殿でそれらしい人間を見掛けたことは無かった。
「十二番所の女は私だけでございます」
「だが、俺は確かに十二番を出入りする女を見た。俺が間違っているとでも言いたいのか」
「十二番所の女は私だけでございます」
繰り返しそう言うと、男を睨んだ。そして、それ以上は言うまいと固く口を閉じると、男は江迎の顎を掴んだまま、反対の手で頬を力いっぱいに叩いたのだ。
そのまま体勢が崩れ、床に倒れ込む。叩かれた頬はそこまで痛まないが、叩かれたという事実が衝撃的で、そのまましばらく言葉を失った。
「可愛げの無い女め」
倒れた江迎の方へ近付き、長い前髪を強く引っ張る。鼻と鼻が触れる近距離まで顔を近付け、もう一度、今度は反対の頬を叩いた。
「まあ良い。女であることは変わらん」
そう吐き捨てて床に無理矢理押し倒し、乱れた襟に手を掛けると、男は江迎の前身ごろをはだけさせた。乳房が全て露になりそうなはどに剥かれ、隠そうとしても手を押さえつけられる。男の下半身が布越しに押し付けられる。何をするのかなど、明瞭であった。
「人違いなのだから、お前は妻でもなければ客人でもないただの侵入者、どうせ明日には鳥の餌。それなら女としての務めを果たしてから死ね」
江迎がいくら叫んだところで、誰もここには助けは来ない。無骨な手が身体を暴く。嫌悪感と恐怖しか感じられず、何度も首を振っても男は手を止めない。抵抗すれば抵抗すれほど、この男が喜ぶことは明白であった。だが、黙って受け入れることはできない。唇を噛んで男の下で暴れても、その度に頬を叩かれて勢いが無くなる。これを繰り返すうちに男の苛立ちは増し、ついには江迎の首に手を掛けたのだ。
「そんなに嫌ならば死んでから可愛がってやろう」
力を込めて、骨が折れるほどに締め上げる。江迎は堀を泳ぐ鯉のように、空気を求めて口をぱくぱくと開く。声すら上げられず、抵抗できる力すら出ない。最早これまで、段々と意識が遠退いていく。
と、その時だった。
「なんだ! 」
一匹の獣が二人の間に入り込んだ。犬にしては小さいが、俊敏である。暗闇でよく見えないが、爪は鋭く尖っており、男が「痛い!」と叫んだと同時に、身体が江迎から離れた。何度も執拗に男に襲いかかっているようで、じたばたと狭い小屋で男が暴れる。長年放置された小屋なのか、腐れた床板が抜け、男は足を取られた。
「ええい、離れろ! 」
近くにあったものを手当たり次第に投げても、獣には当たらない。それどころか余計に獣を挑発し、しまいには顔を引っ掛かれたようだ。両手で顔面を押さえ、その場にしゃがみこむ。あまりの激しい騒動に、他の人間がぞろぞろと小屋に集い始めた。
江迎は慌てて衣を正す。獣は男の腕に噛みついたまま、離れない。腕を振っても微動だにせず食らいつき、怯んだ男が扉までよろけたところで、ようやく獣の姿がはっきりと見えた。
それは、猫だった。
ただの猫ではない。文が十二番所の床下で飼っていた、あの猫だった。
「化け猫が! 」
取り巻きの男の一人が刀を取り出し、猫に襲いかかる。しかし猫の俊敏さに勝てるはずもなく、振り下ろした刀は砂利に沈み、猫は疾風のごとく屋根に登るとどこかへと消え去ってしまった。
男は顔に深い傷を負った。右頬から左頬までの横一文字に引っ掻き傷があり、血が滴り落ちる。目は怒りで真っ赤に充血し、身体中が震えている。取り巻きの男から刀を無理矢理奪い再び小屋に入ると、江迎の目の前に立った。
「この女のせいだ! 」
まるで門に飾られた鬼の首の焼き物のように、険しい表情で見下ろす。身体からは湯気が立っていた。勿論、男の傷は江迎のせいではない。だが男は怒りが鎮まらず、座り込んでいた江迎に向かって刀を振り上げた。最早これまで。江迎は観念したように強く目を閉じる。
だが、いつまで経っても首と身体は繋がったまま。振り上げた刀の行き先を確認するようにうっすらと片目を開けてみる。
江迎の目の前に、また別の男が立っていた。音も気配も無く、この一瞬でどこからやって来たのか。この場には不釣り合いな程に酷く落ち着いており、乱心して刀を振り上げたままの男の前に立ち、後ろ手を組んで堂々としている。
「さて、この騒動は何事だろうか」
「正里様! 」
先程まで怒り狂って真っ赤になっていた男の顔が真っ青に変わる。取り巻きの人間も一斉に砂利の上に手を付き、平伏した。
この人間が、正里。今まで自分を乱暴した男が正里氏だと思っていた江迎は、すっかり肩透かしを食らった。
「化け猫でございます。化け猫が、騒動をしまして」
「化け猫が騒動をして、なぜ我が妻に刀を振り上げるのだ」
「違います。まずはその人は正里様が言っていた方では無く、人違いでありまして」
「人違いの人間に、なぜ刀を向けたのだろうか」
「ば、化け猫が暴れて私の顔に」
「なぜ化け猫が暴れたのだろうか。そもそも、化け猫などの妖怪の類いを、私は信じないがね」
「それは……」
男はしどろもどろになりながら、顔からは大量の汗が吹き出す。震えた手から、刀が落ちた。
「どちらにせよ、間違えて連れて来たのならお前達が悪い。すまなかったね、怖かったろう」
正里氏は跪くと、まずは江迎に部下の無礼を詫びた。穏やかで優しい笑みは、ここの人間とは相反している。この男が刑部主とは考えられないほどに、苛烈さは微塵も感じさせなかった。
「おや」
正里氏は顔を見るなり、少しだけ首を捻った。一瞬だけ表情が強張ったのを、江迎は見逃さなかった。
「名は」
「江迎でございます」
「生まれは」
「鎮勢山でございます」
「歳は」
「今年で十八になります」
「そうか」
短いやり取りの後で、腕を組み何かを考える仕草をした。そしてもう一度江迎の顔を見る。
外は既にすっかり明るくなっており、鳥の囀りが辺り一面に響く。朝の鐘突が聞こえ、四面の飯炊所からは竈の煙が空に向かって登っていくのが見えた。
「確かに私が呼んだ人とは違うな。だが、気に入った。貴女を妻に娶ろう。そしてお前は、私の妻となる人を姦淫しようとした。今ここで死罪を言い渡す」
男は正里氏の言葉を聞くや否や、突然大声で暴れ始めた。そもそも江迎をここに間違って連れて来たのは正里氏の別の配下の人間であり、その結果偶発的にこの事件が起きたのだと。
「そもそも私は、ただこの女の様子を見に来ただけであり、そこでたまたま発狂されて、更には猫に襲われたのです!」
「無理があるな」
正里氏は微笑んだまま、ばっさりと一蹴した。確かに正里氏と男が連れて来いと言った人間は文であり、間違って江迎を連れてきたのだから、その責任の所在は最初の三人の男にある。
だが、蹂躙しようとして、更には散々殴っておいて、更には言い訳を始めたこの男が江迎は許せなかった。叩かれた頬は、まだじんじんと熱を帯び、触られた手の感覚は生々しく、吐き気すらした。
「この好色男が! 」
自棄になり大声で叫び出した瞬間、男は背後にいた別の者から首を一刀両断された。熟しすぎた柿のように、ぼとりという生々しい音と共に頭が砂利に落ちる。その際、首だけの男と一瞬だけ視線が合った。首から吹き出した血は辺り一面を赤く染めた。血濡れ沙汰を見慣れない江迎は、思わず顔を背ける。しかし瞼の奥には、男のあの眼差しが強くこびりついて離れなかった。
「片付けておきなさい。江迎、こちらへ」
正里氏は淡々と一言だけそう告げると、屋敷へ踵を返す。もう先ほどの騒動など無かったかのような立ち振舞いであった。
「貴女をここに連れて来て申し訳ない。許しておくれ」
江迎は正里氏の三歩後ろを歩きながら、その姿を見た。男が死の間際に吐き捨てた言葉を反芻しながら、自分が正式に妻となることで、文は無事に北殿にいれるのだろうかと、そればかりが気掛かりであった。
(続く)




