第8話
風が吹き抜け、広場の木々がざわめいた。
俺は腕のサポーター越しに古傷を軽く押さえながら、新しい波の予感を静かに受け止めていた。
平和な日常を取り戻しつつある領地に突然現れた、謎の少女セリア。彼女は末っ子のミルたちに手を引かれ、最初は戸惑っていたものの、今ではすっかり遊びの輪に溶け込んでいる。無邪気な笑い声が、澄んだ青空に響き渡っていた。
その光景を少し離れた切り株のそばで見守っていると、見張りを任せていた長男のカイトが、息を切らして駆け寄ってきた。
「親父、入り口に妙な客が来てる。武装は解いてるが……あの時の騎士だ」
カイトの声には強い警戒の色が滲んでいた。無理もない。
あの時の騎士。男爵軍の指揮官として、この領地に侵攻してきたクロードのことだろう。
「分かった。お前はここで子供たちを見ていてくれ」
俺は短く指示を出し、広場を後にして領地の入り口へと向かった。
木の柵を設けた簡素な門の前に、一人の男が立っていた。手入れの行き届いた銀色の鎧ではなく、動きやすい質素な平服姿だ。腰に剣は帯びていない。
俺の姿を認めると、クロードは姿勢を正し、深く頭を下げた。
「突然の訪問、非礼を詫びる」
「何の用だ。男爵の使いなら帰れ。それとも、また降伏勧告でもしに来たのか」
俺が冷たく言い放つと、クロードはゆっくりと顔を上げた。その表情には、以前のような堅苦しい敵意はなく、どこか憑き物が落ちたような清々しさがあった。
「いや、今日は私個人の意志でここへ来た。貴殿に、折り入って頼みがある」
クロードはまっすぐに俺の目を見た。
「私は、ゴードン男爵には完全に見切りをつけた」
静かな、しかし確固たる響きを持った声だった。
彼は長年、真面目で忠誠心が強いがゆえに苦悩してきたという。主君の強欲さと、領民から搾取することしか考えない非道な振る舞い。重税に苦しむ農民たちの悲鳴を聞きながらも、それに従うことが騎士の務めだと自分に言い聞かせてきた。
「先日、貴殿らがこの地を守り抜く姿を見た。見事な戦術もさることながら、私が最も心を打たれたのは、領民が一つになり、誰一人欠けることなく笑顔で勝利を分かち合う光景だった」
クロードは自嘲気味に唇の端を歪めた。
「私が騎士として守りたかったものは、主君の私腹を肥やすための略奪ではない。あのような、人々の穏やかな暮らしだったのだと、痛いほどに気づかされたのだ」
彼は片膝をつき、土の上に両手をついた。
「私は、あの男爵の私兵としてではなく、この地の子供たちの笑顔を守る盾となりたい。どうか、私を貴殿の陣営に加えてはもらえないだろうか」
敵将の突然の寝返り。罠を疑うのが傭兵としての常道だ。だが、彼の目には嘘偽りのない覚悟が宿っていた。板挟みの苦悩を乗り越え、自分の信じる正義のために地位も名誉も捨ててきた男の顔だった。
俺は少しの沈黙の後、短く応じた。
「……裏切り者は嫌いだが、自分の信念に従う奴は嫌いじゃない。立て、クロード」
「感謝する、レオン殿」
クロードは安堵の息を吐き、力強く頷いた。
◆ーーーー◆
俺はクロードを伴い、執務室代わりに使用している小屋へと向かった。
中に入ると、次男のシオンが机に向かい、領地の帳簿と睨めっこをしていた。細身で青白い肌をした彼は、俺たちの足音に気づいて顔を上げる。
「おや、珍しいお客さんだね。男爵の犬が何の用?」
シオンは少し長めの前髪の奥から、皮肉交じりの冷ややかな視線を向けた。
「シオン、言葉に気をつけろ。彼は今日から俺たちの味方だ」
「……へえ。それは面白い冗談だ」
シオンは肩をすくめたが、クロードはその態度を咎めることなく、懐から分厚い羊皮紙の束を取り出して机の上に置いた。
「手土産というわけではないが、これを見てほしい。私が長年かけて密かに集めた、男爵の隠し財産の目録と、傭兵ガレスを動かす裏の資金ルートの詳細だ」
その言葉に、シオンの目の色が少し変わった。
彼は羊皮紙の束を引き寄せ、素早い手つきで中身に目を通し始める。膨大な数字と暗号のような記述が並んでいたが、シオンの頭脳はそれを瞬時に解読していく。
「なるほど……。王都に送った不正告発の証拠だけじゃ、男爵はトカゲの尻尾切りで逃げる可能性があった。でも、この資金ルートを物理的に潰せば、奴は傭兵を雇い続けることができなくなる」
シオンは羽ペンを手に取り、手元の白紙にすらすらと図式を書き込んでいく。
「男爵の弱点はここだ。この隠し金庫のある別邸。警備は手薄で、ガレスの主力部隊は本邸の守りに回っている。ここを叩けば、奴の資金源は完全に断たれる。それに、この帳簿の記述と照らし合わせれば、王都の査察官も言い逃れを許さないはずだ」
青白い顔をした次男が、理路整然と敵の急所を突く作戦を組み立てていく。
かつて、体力がないことにコンプレックスを抱え、自分は役立たずだと俯いていた少年の姿はそこにはない。今や彼は、持ち前の計算能力と論理的な思考を武器に、この大家族の立派な参謀として機能している。
「君の持ってきた情報、なかなか使えるよ。元騎士殿」
シオンが口元に薄い笑みを浮かべて言うと、クロードは真面目な顔で深く頷いた。
「お役に立てて光栄だ。内部の構造や警備の巡回経路なら、私がすべて頭に入れている。案内も任せてほしい」
俺はシオンの書き上げた緻密な作戦図を見つめ、その知略の目覚ましい成長に静かな驚きと頼もしさを感じていた。
「よし。この作戦でいく」
俺は机を軽く叩き、二人の顔を交互に見た。
「男爵の資金源を絶ち、王都からの査察と同時に決定的な打撃を与える。これが最後の一手だ」
俺は机上の作戦図を指先で叩き、二人に頷き返した。シオンが羊皮紙を丸めて筒に収め、クロードが静かに立ち上がる。
小屋を出ると、広場では子供たちが相変わらず無邪気に走り回っていた。
長女のアリアが洗濯物を干しながら下の子たちの世話を焼き、カイトが自警団の若者たちと木剣を打ち合って汗を流している。職人のバルガスの工房からは、新しい防具を打つ甲高い金属音がリズミカルに響いていた。
領地全体が、一つの生き物のように力強く脈打っている。
俺が戦場の片隅で拾ってきた十七人の孤児たちと、この豊かな地を求めて集まった流民たち。誰一人として失うわけにはいかない、俺のたいせつな家族だ。
「レオン殿。私も微力ながら、全力で戦わせてもらう」
隣に立つクロードが、決意を込めた声で言った。
「ああ。頼むぞ」
俺はクロードの肩を叩き、彼を自警団の若者たちへ紹介するために歩き出した。
クロードという新たな力を得て、領地全体が一つになり、反撃の機運は最高潮に達しつつあった。
男爵を完全に追い詰める作戦は、すでに動き出している。
俺は空を見上げ、来るべき決戦の日に思いを馳せた。この作戦で、あの強欲な男爵との因縁にどう決着をつけるのか。
確かな前進の手応えを感じながら、俺は静かに闘志を燃やしていた。




