第7話
どんな敵が来ようと、俺たちは決して屈しない。
そう心に誓った夜から、数日が過ぎた。
王都での賠償金交渉を担う使者からの報告は途絶えたままで、街道の見張り台では男爵軍の再侵攻に備えた昼夜の監視が続いている。
だが、男爵軍を無傷で完全撃退したという事実は、領民たちに確かな自信をもたらしていた。
朝の冷たい空気を吸い込みながら、俺は右腕に巻かれた布地を軽く撫でた。
カイトが特産品の丈夫な繊維を使って編み上げてくれた、手作りのサポーターだ。冬の寒さで痛む古傷を庇うためのものだが、これをつけていると不思議と腕が軽く感じる。
俺は足元の土を踏みしめ、領地の中心部へと歩き出した。
視線の先には、最近完成したばかりの大きな木造の建物がある。特産品の取引で得た資金を投じて建てた、子供たちのための学校だ。
建物の近くまで来ると、開け放たれた窓から元気な声が聞こえてきた。
「はい、では次の行を読んでみましょう。皆さん、声を合わせて」
エレナの澄んだ声が響く。
俺がそっと入り口から中を覗き込むと、黒板の前に立つ彼女の姿があった。丸眼鏡の奥の瞳は熱を帯び、教鞭を片手に子供たちと向き合っている。
黒板には、基本的な文字の読み書きだけでなく、簡単な計算式も書かれていた。戦火で職を追われた元学者である彼女にとって、こうして教壇に立つ時間は何よりの喜びなのだろう。
「そこまで。今日はとてもよくできましたね」
授業の区切りがついたのか、エレナが微笑みながら手を叩いた。
途端に緊張が解けた子供たちが、わあっと歓声を上げて椅子から立ち上がる。彼らは次々と教室を飛び出し、外の広場へと駆けていった。
最後の一人が外へ出たのを見届けてから、俺は教室の中へと足を踏み入れた。
「お疲れ様だな」
「あ……レオン。いらしていたのですね」
エレナは黒板消しを置き、こちらへ向き直った。その表情には、充実感と少しの疲労が入り混じっている。
「子供たちの声が戻って、本当によかった。一時はどうなることかと思いましたけれど」
「ああ。だが、まだ完全に終わったわけじゃない。警戒は怠れない」
「ええ、分かっています。でも……」
エレナは少しだけ視線を伏せ、それから真っ直ぐに俺の目を見た。
「命懸けでこの場所を守ってくださって、本当にありがとうございました。あなたがいてくれたから、私たちはこうしてまた、明日を信じることができます」
丁寧な言葉の端々に、深い感謝の念が滲んでいた。
俺は短く息を吐き、首を横に振る。
「俺一人の力じゃない。お前たちが自分の居場所を守ろうと動いた結果だ」
「それでも、あなたが私たちを導いてくれたことに変わりはありません」
エレナは穏やかに微笑んだ。
俺は照れ隠しに首の後ろを掻き、無言で頷いた。
子供たちの食事の時間を守る。そのささやかな願いのために始めた開拓が、今ではこれほど多くの人々の生活を支えている。
その重みを、改めて噛み締めた。
外の広場からは、子供たちの賑やかな声が絶え間なく聞こえてくる。
俺はエレナに軽く手を上げ、教室を後にした。
広場に出ると、かつて開墾の邪魔だった巨石群の周辺で、子供たちが入り乱れて遊んでいた。
大人が何人がかりでも動かせなかった巨大な岩の群れは、男爵軍を迎撃する際には完璧な防衛陣地として機能した。そして今は、子供たちの絶好の隠れ家であり、遊び場となっている。
「こっちだよー! はやくはやく!」
ひときわ高い声が響いた。末っ子のミルだ。
彼女は少し大きめのお下がりの服を翻し、最近移住してきたばかりの流民の子供たちの手を引いて走っている。
「まってよぉ、ミルちゃん!」
「ふふっ、おそいおそい!」
流民の子供たちは、領地に来たばかりの頃は怯えたような顔をしていた。だが、天真爛漫なミルに引っ張られるうちに、今ではすっかり笑顔を見せるようになっている。
俺は少し離れた切り株に腰を下ろし、その光景を静かに眺めた。
戦場で見てきた、焼け落ちた村。親を失い、泣き叫ぶ子供たち。
俺は無意識のうちに、右腕の古傷を強く押さえていた。
だが、目の前にあるのは、太陽の下で無邪気に笑い合う子供たちの姿だった。
この笑顔を守るために、俺は戦ったのだ。
胸の奥に、温かいものがじんわりと広がっていくのを感じる。
俺たちの領地は、確実に前に進んでいる。どんな困難が待ち受けていようと、この絆があれば乗り越えていけるはずだ。
そんな小さな手応えを感じながら、俺は目を細めた。
昼下がり。
日差しが少し傾き始めた頃、広場の外れで奇妙な光景を目にした。
ミルが巨石の陰から、見慣れない少女の手を引いて現れたのだ。
「お兄ちゃん、みてみて! わたし、あたらしいおともだちできたの!」
ミルが俺の元へ駆け寄り、満面の笑みで報告してくる。
彼女に手を引かれている少女は、ミルより少し年上に見えた。質の良い生地の服を着ているが、裾のあたりが土埃で汚れている。
流民の子供ではない。行商人の身内とも違う。
どこかお忍びでやってきたような、周囲から浮いた雰囲気を纏っていた。
「……」
少女は警戒したように身を固くし、俺を見上げている。
「ミル、その子は?」
俺が尋ねると、ミルは少女の顔を覗き込んだ。
「えっとね、あっちのほうで迷子になってたの。だから、いっしょにあそぼうって誘ったんだよ!」
「迷子、か」
俺は立ち上がり、少女の目の高さに合わせるように片膝をついた。
「怪我はないか? どこから来たんだ」
できるだけ威圧感を与えないよう、静かな声で問いかける。
少女は少し戸惑ったように視線を泳がせた後、小さな声で答えた。
「……セリア、です。怪我は、ありません」
言葉遣いは丁寧だが、どこかぎこちない。
彼女の瞳の奥には、好奇心と不安が入り混じったような複雑な色が浮かんでいた。
「そうか。俺はレオンだ。この領地を管理している」
「レオン……」
セリアは俺の名前を口の中で反芻し、それから広場で遊ぶ子供たちへと視線を向けた。
「ねえねえ、セリアちゃん! あっちで鬼ごっこしてるの! いっしょにいこう!」
ミルが待ちきれない様子で、セリアの腕を引っ張る。
「えっ、あ、ちょっと待って……」
セリアは慌てた声を上げたが、ミルの勢いに抗いきれず、そのまま遊びの輪の中へと引きずり込まれていった。
最初は戸惑っていたセリアだったが、ミルや他の子供たちに囲まれるうちに、少しずつ表情が和らいでいく。
やがて、彼女の口から小さな笑い声が漏れた。
俺は切り株のそばに立ち尽くし、その光景をじっと見つめていた。
平和な日常を取り戻しつつある領地に、突然現れた謎の少女。
彼女の身なりや振る舞いからは、ただの迷子とは思えない事情が透けて見える。
セリアは一体何者なのか。
そして、この領地に何をもたらすのか。
風が吹き抜け、広場の木々がざわめいた。
俺は腕のサポーター越しに古傷を軽く押さえながら、新しい波の予感を静かに受け止めていた。




