第5話
執務室の机に置かれた羊皮紙を、俺はもう一度睨みつけた。
『ゴードン男爵領への不法侵略、および貴族への反逆罪について。直ちに王都の法廷に出頭せよ』
何度読み返しても、書かれている内容は変わらない。武力で勝てないと悟った男爵が、今度は権力と法を盾にしてきたのだ。
剣では斬れない敵。理不尽な悪意が、再び俺たちの居場所を脅かそうとしている。
「入るわよ」
ノックの音とともに、アリアが執務室に顔を出した。彼女の腕には、何枚もの木板が抱えられている。
「怪我人はゼロ。建物の被害も、南側の柵が少し壊れた程度で済んでるわ」
アリアは手元の木板を見ながら、テキパキと報告を始めた。その声には疲労の色が滲んでいるが、瞳には確かな光が宿っている。
「よくやってくれた。小さい奴らはどうしてる?」
「みんな落ち着いてる。今は学校の裏庭で、ドノバンお爺ちゃんの手伝いをさせてるわ。土いじりをしてる方が、気が紛れるでしょうから」
「そうか」
俺は短く応え、小さく息を吐いた。非戦闘員である子どもたちが無事だったことが、何よりの救いだ。
だが、アリアの視線が机の上の羊皮紙に止まり、その表情がスッと険しくなった。
「それ、王都からの書状ね。村の入り口で役人が置いていったって聞いたけど……内容は?」
「反逆罪で出頭しろとさ。向こうは俺たちを侵略者として裁くつもりらしい」
アリアは息を呑み、木板を抱える手に力を込めた。
「そんなの、でたらめじゃない! 攻めてきたのはあっちなのに!」
「ああ。だが、向こうは貴族で、こっちはただの平民だ。法廷に引きずり出されれば、不利になるのは目に見えている」
俺の言葉に、アリアは悔しそうに唇を噛んだ。彼女が戦災孤児という出自に引け目を感じていることは知っている。貴族という絶対的な権力の前では、正論など通用しないと、彼女も痛いほど理解しているのだ。
その時、開け放たれた窓の外から、聞き慣れた声が響いた。
「よお、お客さん。どうやら無事だったみたいだな」
振り返ると、恰幅の良い男が窓枠に肘をついて笑っていた。常に頭に手ぬぐいを巻いている行商人、ザックだ。
「ザック。こんな時に来るなんて、あんたも物好きだな」
「商機ってやつさ。それに、お得意様が潰れちゃ困るからね」
ザックは窓からひらりと身を翻し、執務室に入ってきた。その手には、分厚い革袋が握られている。
「男爵軍が退いたって噂を聞いてね。急いで駆けつけたってわけだ。で、お困りのようだが?」
ザックの視線が、机の上の書状を捉える。
「……王都からの呼び出しだ。反逆罪のな」
「なるほど。あのタヌキ親父、やっぱりその手に出たか」
ザックは呆れたように肩をすくめると、持っていた革袋を机の上にどさりと置いた。
「なら、こいつの出番だな」
「なんだ、これは」
「ゴードン男爵の裏帳簿と、周辺領地での不法な徴税記録の写しだ。俺の商人ルートをフル活用して集めさせてもらった」
ザックの言葉に、俺とアリアは顔を見合わせた。
「裏帳簿……?」
「ああ。あいつが私腹を肥やすために、どれだけ汚い手を使ってきたか。その証拠がぎっしり詰まってる。こいつを王都の法務局にねじ込めば、反逆罪の嫌疑を晴らすどころか、逆に莫大な賠償金をふんだくれるぜ」
ザックはニヤリと笑い、俺の顔を覗き込んだ。
「あんたの狙いはなんだ?」
「簡単なことさ。賠償金の何割かを手数料としてもらう。それと、この領地の特産品の独占取引権だ。悪くない話だろ?」
損得勘定で動くことを信条とする彼らしい提案だ。だが、今の俺たちにとって、これほど心強い味方はいない。
「分かった。頼む」
俺が頷くと、ザックは満足げに手を打った。
「交渉成立だ。法務局の役人には俺の知り合いがいる。そっちの根回しは任せておきな」
ザックが持ってきた書類の束を、アリアが食い入るように見つめていた。
「これだけの証拠があれば……本当に賠償金が取れるの?」
「ああ、間違いねえよ。男爵の首が飛ぶくらいの額にはなるはずだ」
ザックの太鼓判に、アリアの瞳に再び光が戻った。彼女はすぐに別の羊皮紙を引っ張り出し、羽ペンを握りしめた。
「もしそれだけの額が手に入れば……冬の備えはもちろん、新しい水路の建設も前倒しできるわ。それに、学校の教材ももっと増やせるし……」
アリアのペンが、羊皮紙の上を滑るように走る。彼女の頭の中では、すでに緻密な資金管理計画が組み上がっているのだろう。
「無駄遣いは絶対に許さないからね。まずは壊れた柵の修繕費、それから……」
ぶつぶつと呟きながら計算を進めるアリアの横顔を見て、俺は小さく息を吐いた。彼女の責任感の強さには、いつも助けられている。
「あまり根を詰めるなよ。お前が倒れたら、元も子もない」
「大丈夫よ。これくらい、私にもできるわ」
アリアは顔を上げず、力強く答えた。その細い肩に背負っているものの重さを、俺は誰よりも知っている。だからこそ、彼女が安心して笑える場所を、何としても守り抜かなければならない。
◆ーーーー◆
数日後。
ザックの裏回しにより、王都へ送る反撃の書状の準備が整った。男爵の不正を告発し、不当な侵略に対する莫大な賠償金を請求する内容だ。
だが、事態はそう簡単には進まなかった。
「領地の南側で、不審な影を見たって報告があったわ」
執務室にやってきたアリアが、声を潜めて告げた。
「男爵の放った密偵だろうな。こちらの動きを探っているのか、それとも妨害工作を企んでいるのか」
俺は窓の外に広がる領地の景色を見渡した。開墾が進み、緑が芽吹き始めた豊かな土地。その平和な風景の裏で、見えない敵が蠢いている。
「ザックの馬車が王都へ向かうのを、狙ってくるかもしれないわね」
「ああ。だから、護衛をつける」
俺はあらかじめ考えていた策を口にした。
「カイトたち自警団を同行させる。あいつらなら、密偵の動きを察知して退けることができるはずだ」
「でも、あなたはどうするの? 領地の守りは……」
「俺はここに残る。万が一、男爵が再び軍を差し向けてきた時のために備えておかなければならない」
武力ではなく、知略と法で敵を討つ。傭兵時代には考えもしなかった戦い方だ。かつての俺なら、剣を抜いて敵の首を刎ねるだけで終わらせていただろう。
だが、今は違う。俺には守るべき家族がいる。十七人の子どもたち全員が、腹いっぱい飯を食い、安全な場所で眠り、未来のために学ぶ。その居場所を脅かす者は、どんな手を使ってでも排除する。
「分かったわ。カイトたちには、私から伝えておく」
アリアは力強く頷き、執務室を出て行った。
その日の午後。
ザックの馬車が、王都へ向けて出発した。荷台には、男爵の不正を暴く証拠と、反撃の書状が積まれている。
馬車の周囲には、カイトをはじめとする自警団の若者たちが、鋭い視線を巡らせながら付き従っていた。彼らの頼もしい背中を見送りながら、俺は確かな手応えを感じていた。
カイトが馬上で振り返り、力強く拳を突き上げた。俺も無言で手を挙げ、土煙の向こうへ消えていく一行を見送った。
王都へ送られた賠償金請求の書状と、反撃の狼煙。
男爵はこの痛烈な反撃にどう出るのか。
戦いはまだ終わっていない。だが、俺たちは決して屈しない。子どもたちの未来が保証された、この辺境一の豊かな領地を守り抜くために。
俺は静かに目を閉じ、次の手に思いを巡らせた。




