第29話
工房を離れた俺は、緩やかな坂道を登り、集落を見下ろす高台へと向かった。
青空の下、木造の真新しい建物が静かに佇んでいる。白樺の木材で組み上げられたその校舎の窓からは、小鳥のさえずりにも似た賑やかな声が漏れ聞こえていた。
防衛戦が終わって数日。傷ついた外壁の修繕や畑の整理も一段落し、今日から学校の授業が正式に再開されたのだ。
開け放たれた引き戸から中を覗き込むと、磨かれた木の机が規則正しく並び、子どもたちが身を乗り出すようにして黒板を見つめていた。
「――ですから、十の束が三つと、バラの木の実が四つあるときは、全部でいくつになるかしら?」
教壇に立つエレナが、チョークを片手に澄んだ声を響かせる。鼻の上にちょこんと乗った丸眼鏡の奥で、その理知的な瞳が熱心に光っていた。普段の物静かな雰囲気とは打って変わり、教える場に立つ彼女はいつも生き生きとしている。
「はい! はい、せんせい!」
勢いよく小さな手を挙げたのは、最前列に座るミルだった。少しだぶついた上着の袖口を揺らしながら、椅子からお尻が浮き上がるほど背伸びをしている。
「はい、ミルちゃん。答えてみて」
エレナが優しく微笑みながら指名すると、ミルは胸を張って満面の笑みを咲かせた。
「さんじゅうよんこ! みんなでわけっこして、いっぱい食べられるかず!」
「ふふ、大正解です。よくできましたね」
エレナが花丸を黒板に描くと、ミルは嬉しそうに隣の席の子と顔を見合わせて笑った。教室全体に柔らかな笑い声が広がり、他の子どもたちも競うように石板へ数字を書き込んでいく。
俺は邪魔にならないよう、壁の隅に寄りかかってその様子を眺めていた。だが、チョークを置いたエレナがこちらの姿に気づき、静かに歩み寄ってきた。
「レオンさん。見学に来てくださったのですか?」
「いや、邪魔するつもりはなかったんだがな。様子が気になって寄ってみただけだ」
俺がそう言うと、エレナは眼鏡の位置を指先で直しながら、穏やかに目を細めた。
「邪魔だなんてとんでもない。子どもたちも、あなたが来てくれたら喜びます。……それに、私からも直接お伝えしたかったのです」
エレナは一度言葉を切り、真剣な眼差しで俺を見つめた。
「この場所を、子どもたちの学ぶ場所を命懸けで守ってくださり、本当にありがとうございました。あの戦いの報せを聞いたとき、私はかつて王都で職を追われた日の絶望を思い出して、生きた心地がしませんでした。けれど……あなたは誰一人欠かすことなく、私たちの日常を取り戻してくれた」
「礼を言われる筋合いはない。俺はただ、自分の家を守っただけだ。……それに、ここを守り抜けたのは、お前が子どもたちに教えてくれた知識や、あいつらの成長があったからだ」
俺が不器用に視線を逸らすと、エレナは小さく吹き出した。
「相変わらずご自分を勘違いしていらっしゃる。ですが、そういうところも含めて、みんなあなたを信じているのですよ」
ちょうどそのとき、授業の終わりを告げる鐘の音がからんと響いた。
「さて、午前の算術はここまでにしましょう。皆さん、お昼休みにしてください」
エレナが振り返って声をかけると、子どもたちは一斉に歓声を上げて席を立った。
「わーい! おそとであそぶー!」
ミルが真っ先に教室を飛び出し、中庭の芝生へと駆け出していく。他の子どもたちも、思い思いに木製の玩具や手作りの球を抱えて、日の光が降り注ぐ広場へと散っていった。
俺とエレナも教室を出て、校舎の軒下から中庭を見守ることにした。乾いた土と草の匂いが、そよ風に乗って鼻腔をくすぐる。
「あ! きれいなおねえちゃんだ!」
広場の中央で立ち止まったミルが、手を大きく振りながら叫んだ。その視線の先、中庭の木陰から一人の女性が歩み出てくるところだった。
上質な麻の平服に身を包み、飾り気のない外套を羽織ったセリアだった。王都の監査官という堅苦しい肩書を完全に脱ぎ捨て、身軽な装いで領地をお忍びで訪れていたのだ。
「こんにちは、ミル。今日も元気そうね」
セリアは柔らかい笑みを浮かべ、駆け寄ってきたミルの目の前で膝をついた。目線を合わせるその仕草には、貴族特有の尊大さは微塵も感じられない。
「おねえちゃん、また来てくれたの! あのね、わたし、きょうのおべんきょうで『さんじゅうよん』ってこたえられたんだよ!」
「まあ、すごいのね。それなら、もうすぐ私にお手紙も書けるようになるかしら」
「うん! いっぱい書く!」
ミルは得意げに胸を張り、セリアの手を両手で握りしめた。セリアもまた、手袋を外した指先でミルの柔らかな頬を愛おしそうに撫でる。
「セリア様……いえ、セリアさんもすっかりこの土地に馴染まれましたね」
隣でエレナが感心したように呟いた。
「ああ。あいつは立場上、王都の目を気にしなきゃならん身分だが……ここに来るときはただの一人の人間として振る舞っている」
「素敵なことだと思います。身分や家柄にとらわれず、ただ人と人として笑い合える場所なんて、王都のどこを探してもありませんでしたから」
エレナの言葉通り、中庭では身分を越えた光景が広がっていた。
他の子どもたちも集まってきて、セリアの周りを取り囲んでいる。誰かが持ってきたシロツメクサのような野花を差し出すと、セリアは喜んでそれを受け取り、手際よく編んで小さな冠を作り始めた。
「ほら、ミル。似合うかしら?」
「わあ……! おひめさまみたい!」
頭に花の冠を載せてもらったミルが、裾をつまんでくるりと回る。その愛らしい仕草に、セリアだけでなく周囲の子どもたちからもどっと歓声が上がった。
戦乱の世において、貴族と平民、ましてや素性の知れない孤児がこのように手を取り合って戯れるなど、他所では決して許されない絵空事だろう。
だが、この荒れ地を切り拓いて築いた集落では、それが当たり前の日常として存在していた。出自や過去の傷に関係なく、誰もが肩を寄せ合い、同じ釜の飯を食い、笑い合える場所。それが、いつの間にか形になっていた。
俺は校舎の壁に背を預け、腕を組んだままその光景を静かに見つめた。
かつて戦場を渡り歩いていた頃、俺の目に映る子どもたちは皆、恐怖に震え、飢えに泣き叫んでいた。血と泥にまみれた瓦礫の底で、明日をも知れぬ命を抱えて縮こまっていた小さな影たち。
あいつらを一人、また一人と拾い集めたとき、俺の中にあったのは単なる意地と、見過ごせないという無骨な衝動だけだった。人殺しを稼業にしてきた俺が、父親の真似事などできるはずもないと、心のどこかで自分を嘲笑い続けていた。
だが、今目の前にいる子どもたちはどうだ。
誰一人として、怯えるように空を見上げる者はいない。飢えに喉を鳴らす者もいない。泥に汚れていた手は鉛筆を握り、文字を覚え、花を編み、未来を指さしている。
「……腹いっぱい食わせて、笑って暮らせる場所を作る」
あのとき、荒れ地を買い取った日に誓った思いが、胸の奥で静かに熱を帯びる。
「レオンさん?」
不意にエレナが不思議そうにこちらを覗き込んできた。自分が無意識のうちに口元を緩めていたことに気づき、俺は慌てて咳払いをして誤魔化した。
「……なんでもない。風が少し埃っぽいだけだ」
「ふふ、素直ではありませんね」
エレナは小さく笑い、再び中庭の輪へと視線を戻した。
遠くの畑からは開墾を進める大人たちの掛け声が響き、青空の下には子どもたちの屈託のない笑い声がどこまでも高く響き渡っている。
血で贖う戦いは終わった。ここにあるのは、家族全員で汗を流し、土を耕し、積み上げてきた揺るぎない生活だ。
俺は深く息を吸い込み、澄み切った空気を胸いっぱいに満たした。子どもたちの笑顔が溢れるこの光景こそが、俺が生涯をかけて手に入れたかった、何よりも尊い宝物だった。




