第30話
夕暮れの風が、黄金色に染まる麦畑の穂先を優しく揺らしていた。
広場の中央には、何枚もの分厚い木板を繋ぎ合わせた長テーブルが幾重にも並べられている。その上には、湯気を立てる大鍋や、香ばしく焼き上がった肉料理、色鮮やかな煮込みが所狭しと並んでいた。
「ほら、レオンの旦那! 見てくれよ、今年採れたこのカボチャのデカさを!」
土の匂いを漂わせたドノバンが、腕いっぱいに抱えた見事な橙色の野菜を得意げに掲げてみせた。深い皺の刻まれた顔が、これ以上ないほどほころんでいる。
「ああ、見事なもんだな。ドノバン、畑の連中にも好きなだけ食わせるように言ってあるか?」
「言われるまでもねえよ。みんな腹を空かせて今か今かと待機中だ。こんな美味そうなもんを前にして、我慢できる奴なんざ一人もいねえよ」
老農夫が豪快に笑い飛ばすと、隣の作業台からバルガスが真新しい木製のジョッキと皿をどっさりと運んできた。
「旦那、特産の油で磨き上げた新作の器だ。酒もスープも冷めにくい。今夜の宴で領民全員分を揃えられたぜ」
「助かる。バルガス、職人たちの分の席もちゃんと確保してあるぞ」
「へへっ、ありがてえ。今夜は思いっきり呑ませてもらうぜ!」
頑丈な体躯の職人が胸を叩き、テーブルの端へ器を手際よく並べていく。
広場には、いつの間にか百人を超える領民たちが集まり始めていた。かつては着の身着のままでこの地に流れ着き、怯えた目をしていた者たちが、今では誰もが小綺麗な服を着て、屈託のない笑顔を浮かべている。
子どもたちの笑い声が、風に乗って耳に届いた。
「みんな、並んで! 小さい子から順番によそうから、押さないでね!」
アリアのハキハキとした指示が響く。彼女は長い髪を後ろでまとめ、エプロン姿で大鍋のお玉を巧みに操っていた。手際よく木皿へ具だくさんのシチューを盛りつけ、子どもたちへ手渡していく。
「わあ、お肉がいっぱいはいってる!」
「ドノバンのおじちゃんの畑で採れたお芋も甘くておいしいよ!」
「ほら、こぼさないように席まで運ぶのよ。カイト、あっちの席にパンを届けてくれる?」
「おう、任せとけって!」
腕まくりをしたカイトが、山盛りの焼き立てパンが入った籠を軽々と抱えて走っていく。かつて戦場で痩せ細り、俺の背中に隠れていた少年は、今では自警団を率いる頼もしい若者へと成長していた。
その横では、シオンが帳簿を片手に配給の数を素早く確認している。過不足なく全員へ料理が行き渡るよう、頭の中で緻密な計算を巡らせているのが横顔から見て取れた。
「レオンさん、突っ立ってないで、あなたも席についてくださいな。今日ばかりは領主様もお客様なんですから」
配膳の合間に、アリアがこちらを向いて少し悪戯っぽく眉を上げた。
「俺は後でいい。まず全員に腹いっぱい行き渡ったのを確認してからだ」
「もう、相変わらずなんですから。全部の鍋にこれでもかってくらい食材を放り込んだんです。誰の分も足りなくなる心配なんてありませんよ」
そう言って、アリアは呆れたように息をつきつつも、その瞳には深い信頼の色を宿していた。
かつて、明日食うものさえ定かでなかった頃、わずかな干し肉を分け合っていた日々のことを思い出す。今のこの食卓には、誰一人として飢えを恐れる影すらない。全員が温かい皿を抱え、白い湯気に顔をほころばせている。
「いただきまーす!」
誰かの掛け声を合図に、あちこちで歓声が上がった。収穫を祝う宴が、賑やかに幕を開ける。
◆ーーーー◆
宴が中盤に差し掛かった頃、広場には陽気な音楽が流れ始めていた。町の手先が器用な若者たちが笛や太鼓を打ち鳴らし、中央では子どもたちが手を繋いで輪になって踊っている。
領民たちが美味そうに料理を平らげ、酒杯を交わし合う姿を、俺は少し離れた木陰のベンチから眺めていた。無骨な手のひらで木製のカップを包み込み、ゆっくりとエールを喉に流し込む。
「レオンお兄ちゃん!」
不意に、軽やかな足音とともに小さな影が駆け寄ってきた。
末っ子のミルだ。少し大きめの上着の裾を揺らしながら、両手を後ろに隠して満面の笑みを浮かべている。
「ミルか。腹いっぱい食ったか?」
「うん! シチューもパンもお肉も、ぜーんぶ食べたよ! お腹ぽんぽんだよ!」
ミルは自分のお腹をぽんと叩いてみせ、それから俺の足元へちょこんと歩み寄った。
「あのね、これ、みんなで作ったの。レオンお兄ちゃんにあげる!」
背中から差し出されたのは、色とりどりの野花を丁寧に編み込んで作られた、小さな花冠だった。
白や黄色、淡い紫の素朴な花々が、不揃いながらもぎゅっと固く結ばれている。茎の端が少し不器用にはみ出しているあたり、小さな指先で一生懸命に力を込めて編んだことが伝わってきた。
「……俺にか?」
「うん! 頭下げて、早く早く!」
せかされて腰をかがめると、ミルは背伸びをして、俺の頭にそっと花冠を乗せた。柔らかな花の香りと、土の匂いが鼻先をかすめる。
「えへへ、すっごく似合ってる!」
ミルが無邪気に手を叩いて喜ぶ背後から、アリアとカイト、シオンをはじめとする子どもたちがぞろぞろと集まってきた。いつの間にか十七人全員が、こちらを囲むように立ち並んでいる。
「ちょ、ちょっと待て。俺のようなむさい男に、こんな花飾りは似合わんだろ」
思わず頭に手を伸ばそうとすると、アリアがすかさず前に出てきてその手を制した。
「外したら駄目ですよ。みんなで放課後に集まって、一番綺麗な花を探して編んだんですから」
アリアは誇らしげに胸を張り、それから少しだけ表情を和らげた。
「レオンさん。私たちを拾って、ここまで連れてきてくれて……本当にありがとうございます」
まっすぐな瞳で見つめられ、胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚を覚えた。
「カイトも、シオンも、ミルも、ここにいるみんな……あの日、レオンさんが手を差し伸べてくれなかったら、今の私たちはいませんでした。毎日ご飯をお腹いっぱい食べられて、安心して眠れて、勉強ができて……こんな幸せな場所を作ってくれたのは、あなたです」
「アリア姉ちゃんの言う通りだよ!」
カイトが白い歯を見せて笑い、拳を握りしめた。
「俺、もっと強くなってさ。この領地も、みんなのことも、あんたのことも絶対に守るからな!」
「僕も、もっと計算や流通を学んで、この土地をもっと豊かにしてみせます」
シオンが眼鏡の縁を押し上げながら、確固たる意志を込めて頷いた。
周りにいた幼い弟妹たちも、口々に感謝の声を上げる。誰一人として、怯えた目をしている者はいない。彼らの瞳には、未来への希望と、家族への温かな情愛が満ち溢れていた。
血の繋がりなど、最初からどこにもない。俺が戦場で拾い集めた、寄る辺なき命の寄せ集めだったはずだ。
だが今、目の前にある絆は、どんな血縁よりも強く、固く結ばれていた。
「……お前たちがいてくれたからだ」
俺は短く答えた。喉の奥に熱いものが込み上げてきて、無骨な声がわずかに掠れる。
「俺一人じゃ、ただの荒れ地を耕すことすらできなかった。家を建て、畑を作り、ここまで来られたのは、お前たちが一緒に汗を流してくれたからだ。礼を言うのは、俺の方だ」
不器用な言葉しか紡げない俺を見て、子どもたちは顔を見合わせ、それから一斉に吹き出した。
「ふふっ、レオンさんたら、花冠をかぶったまま真面目な顔をするからおかしいです」
アリアが目元を拭いながら笑うと、ミルが俺の腰にしがみついて甘えてきた。
「レオンお兄ちゃん、だーいすき!」
小さな温もりを受け止めながら、俺はミルの柔らかな髪に大きな手のひらを置いた。十七人の子どもたち全員が、笑顔で俺を取り囲んでいる。この温もりこそが、俺が命懸けで守りたかった世界のすべてだった。
◆ーーーー◆
夜が深まり、宴の喧騒が次第に穏やかなざわめきへと変わっていく。
腹を満たした幼い子どもたちは、領民たちの見守る中で眠そうに目をこすり始め、年長の子たちに手を引かれて新設された宿舎や家々へと戻っていった。
俺は広場の外れ、少し小高い丘の上に立ち、眼下に広がる集落を見渡した。
夜風が心地よく頬を撫でる。頭に乗せられたままの花冠からは、微かに甘い野花の香りが漂っていた。
懐から、かつて男爵から買い取った際に渡された金属盤を取り出してみる。手のひらサイズの魔道具に意識を向けると、淡い光とともに現在の領地を示す数字が浮かび上がった。
人口、食料生産、集落の活力――かつてはすべてが一桁やゼロに近かった数値が、今では目を見張るほどの数字となって輝いている。だが、そんな魔法の数値など確かめるまでもない。
眼下に広がる光景こそが、揺るぎない真実だった。
かつては石ころだらけで、乾いた土と雑草しか存在しなかった荒れ地。誰もが見捨て、価値がないと嘲笑した見渡す限りの荒野。
それが今ではどうだ。
拓かれた畑を銀色の水路が潤し、工房の灯りと学校の白壁が月光に浮かび上がっていた。
煙突から立ち上る炊事の煙、家々の窓からこぼれる優しい光、そして夜空に溶けていく人々の穏やかな話し声。
傭兵として戦場を駆け抜け、泥と鉄の匂いの中で生きてきた過去は、もう遠い彼方にある。
全財産を投げ打ってこの地を買ったあの日、俺が望んだものはただ一つだけだった。十七人の子どもたちに、腹いっぱい飯を食わせること。
そのささやかな願いから始まった開拓は、いつしか多くの人々を包み込み、誰もが笑って暮らせる居場所へと結実した。
見上げれば、遮るもののない満天の星空が広がっている。無数の星々が瞬き、大地を静かに照らし出していた。
遠くの広場から、カイトの笑い声と、それをたしなめるアリアの澄んだ声が微かに風に乗って届いてくる。
何ひとつ欠けていない。失われたものなど、もう何もない。
俺はそっと息を吐き、静かに口元を緩めた。
満天の星空の下、家族の笑い声に包まれながら、レオンの心は確かな幸福感で満たされていた。




