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第28話

子どもたちの足音が遠ざかり、執務机の上に残された金属盤の微光が、朝の陽光に溶けていく。


俺は息をひとつ吐き出し、作業着の上着を羽織って外へ出た。集落の中央通りでは、手押し車を押す男たちや、箒を手にした女たちが忙しなく行き交っている。男爵の軍勢を退けてから数日。戦いの熱はすでに引き、集落は元の、いやそれ以上の活気を取り戻しつつあった。


石畳の道を外れ、緩やかな傾斜を下って南側の農地へと足を向ける。


そこは先日の防衛戦で、敵の別動隊や自警団が足を踏み入れた場所だった。踏み荒らされた畝や、急ごしらえの障害物を撤去した跡が痛々しく残っているはずの土壌には、すでに幾重もの美しい筋が引かれていた。


「おい、そこだ! 鍬の入れ方が浅いぞ! 土の底に溜まった冷気を引っ張り出して、陽の光に当ててやらなきゃ根が張らんだろうが!」


野太くしゃがれた怒声が、澄んだ秋の空に響き渡る。


声の主は、腰に手を当てて仁王立ちするドノバンだった。日焼けした顔に深い皺を刻み、節くれだった太い腕で若者たちに身振りを交えて指示を飛ばしている。


「ドノバン」


俺が声をかけると、老人は片眉をぴくりと跳ね上げ、手にした木製の柄を地面に突き立てた。


「なんだ、レオンか。執務室で小難しい計算でもしてりゃいいものを、こんな泥臭い場所まで何の用だ」


「様子を見に来た。足腰の調子はどうだ」


「ふん、わしの体を気遣う暇があるなら、あの若造どもに気合いを入れてやれ。力ばかり余らせて、土の機嫌を取るってことをまるで分かっちゃおらん」


口ではそう毒づきながらも、ドノバンの表情に険しさはない。彼は足元の黒々とした土をひとつかみすくい上げ、指先で器用に解してみせた。


「……だがまあ、悪くねえ土だ。軍靴で踏み固められた時はどうなることかと思ったが、しっかりと空気を含ませてやれば生き返る。荒れ地だった頃の痩せた土とは訳が違う。これなら、冬越しの作物を植えても十分に育つぞ」


「次の種まきか」


「当たり前だ。戦が終わったからって、腹が減らなくなるわけじゃねえ。むしろこれから冬に向けて、蓄えを作らなきゃならん。アリアの嬢ちゃんが計算してくれた割り当てに合わせて、麦と根菜の比率を調整してるところだ」


ドノバンは立ち上がり、遠くで懸命に鍬を振るう元流民の青年たちに目を細めた。


開拓当初、この男は誰とも言葉を交わさず、ただ黙々と自分の割り当てられた区画だけを耕していた。故郷を戦火で追われ、家族を失い、行き場をなくして流れ着いた過去を持つ。他人に期待することをやめていた老農夫が、今ではこうして大勢の先頭に立ち、土の扱い方を教えている。


「お前さんが男爵の軍を追い払ってくれたおかげで、畑の被害は最小限で済んだ」


ドノバンが不意に、ぽつりと呟いた。


「わしはな、もう二度と、手塩にかけて育てた作物を他人に踏みにじられるのは御免だったんだ。あんな思いをするくらいなら、死んだ方がマシだとさえ思ってた。……だが、守られた」


彼は太い指で顎の無精髭を撫で、小さく鼻を鳴らす。


「ここはわしにとっても、骨を埋める最後の場所だ。若造どもに美味い飯を食わせるためなら、老いぼれの知恵なんぞいくらでもくれてやるさ」


「……助かる」


俺が短く返すと、ドノバンは照れ隠しのように背を向け、「ほら、手を止めるな! 午前中に西側の区画まで終わらせるぞ!」と再び怒声を張り上げた。


土の返る湿った匂いと、作業に励む領民たちの掛け声を背に受けながら、俺は畑を後にした。


◆ーーーー◆


次に向かったのは、集落の北側に位置する作業場の一角、バルガスの工房だった。


木の扉を開けると、油と鞣し革、そして研磨された金属の冷たい匂いが混ざり合って鼻腔を突く。外の賑やかさとは対照的に、室内には規則正しい槌音だけが響いていた。


頑丈な作業台の前で、革のエプロンを着けたバルガスが無言で手を動かしている。無精髭に覆われた顎を引き締め、手元の小刀で革の端を寸分の狂いもなく削ぎ落としていた。


作業場の隅には、先の戦いで使われた罠の残骸や、防衛用に加工された資材が整然と積まれている。


「バルガス」


作業の邪魔にならないよう、手元の動きが途切れたタイミングを見計らって声をかけた。


バルガスは小刀を置き、油の染みた布で無骨な手を拭きながら振り返った。


「……あんたか」


相変わらず口数は少ない。だが、その目元には以前のような他人を拒絶するような鋭い警戒心は消えていた。


「罠の回収と資材の仕分け、片付いたようだな」


「ああ。使える金具や革紐は全部外した。手入れすりゃ、次の道具作りにそのまま回せる」


バルガスは顎で壁際の棚を指した。そこには、丁寧に油を引かれた金属部品が種類ごとに分類されて並んでいた。


「煙幕の筒も、破損したやつ以外は回収して清掃を済ませた。……あの搾りかすを使った仕掛け、シオンの坊主が考えた配分通りに作ったが、まさかあそこまで綺麗に機能するとは思わなかったな」


「お前の加工技術があったからだ。急造品であれだけの精度を出せる職人はそういない」


俺の言葉に、バルガスはわずかに視線を泳がせ、気まずそうに鼻の頭を擦った。


「……俺は、言われた通りに手を動かしただけだ」


そう言いながらも、彼の手は作業台の上に広げられた新しい図面へと伸びていた。そこには、以前作っていた防具の改良案や、集落の特産品として売り出す予定の革製品の寸法が細かく書き込まれている。


「これからは、武器や罠ばかりじゃなく、日用品の生産ラインも広げるつもりだ。ザックの野郎が、王都の商会に卸す革袋と手帳カバーの注文を山ほど取ってきたからな。冬の間に、自警団の若い連中にも簡単な縫製を教え込まなきゃならん」


バルガスの手つきは迷いがなく、その指先には職人としての確かな誇りが宿っていた。


かつて腕を見込まれながらも、信じていた仲間に裏切られて工房を追われ、人を信じられなくなっていた男だ。彼がこの地に腰を落ち着けたのは、俺が彼の過去を問わず、ただその確かな腕前だけを求めたからだった。


「あんたに拾われて、ここで仕事をするようになった時……俺の腕なんて、ただの金稼ぎの道具だと思ってた」


バルガスは図面の端を指で押さえながら、低く落ち着いた声で言った。


「だが、この間の戦いで、俺が仕立てた防具がカイトやあんたの身を守った。シオンと一緒に作った仕掛けが、あの化け物じみた敵を押し返した。……俺の技術が、誰かを守るために使えたのは、生まれて初めてだったよ」


彼は作業台の木目をじっと見つめ、それから顔を上げて俺を見た。


「俺にも、守るべき場所ができたんだ。だから……礼を言うのは俺の方だ、レオン」


不器用な男の、飾りのない本音だった。


「……そうか」


俺は短く頷き、作業台に置かれた革の端切れに触れた。厚手で丈夫な、使い手のことを考えて丹念になめされた革の感触が、手のひらに伝わってくる。


「無理はするなよ。冬の準備はまだ始まったばかりだ」


「あんたこそな。子どもたちの前で倒れたりするなよ」


バルガスが珍しく口元を緩め、再び小刀を手に取った。


工房を出ると、正午の鐘が遠くで鳴り響いた。


心地よい疲労感を伴った風が、集落の通りを吹き抜けていく。畑の方からは耕されたばかりの豊かな土の匂いが漂い、工房からは金属を打つリズミカルな音が途切れることなく響いていた。


子どもたちだけではない。ドノバンも、バルガスも、そしてこの地に集まったすべての人間が、自らの足で立ち、居場所を守り抜いたのだ。


俺は青く澄み渡る空を見上げ、深く息を吸い込んだ。穏やかな日常が、確かにこの大地に根付いていた。

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