第27話
夜が明けると、谷を包んでいた冷たい霧は柔らかな朝光に溶けて消えていた。
風が運んでくるのは硝煙の残り香ではなく、湿った土と青草の匂いだ。昨夜の騒がしさが嘘のように、開拓地の朝はいつもの穏やかな呼吸を取り戻している。
母屋の食堂では、すでに朝食の片付けが終わっていた。長机の端に陣取ったアリアとシオンが、何枚もの羊皮紙と木製の計算盤を広げ、頭を突き合わせている。
「シオン、こっちの項目。王都の裁定機関から通達された賠償金の一時金、本当にこの桁で合ってるの? 書き写し間違えてない?」
アリアが眉をひそめながら、羽根ペンの軸で紙面をとんとんと叩いた。
シオンは細い指先で前髪を払うと、眼鏡の奥の目をわずかに細めて小さく肩をすくめた。
「三回検算したよ、アリア姉。男爵家が私財として隠し持っていた裏金台帳の数字と、特使が差し押さえた資産目録を照らし合わせたんだ。疑うならもう一度僕の手元を見せるけど?」
「疑ってるわけじゃないわよ。ただ……あまりにも額が大きすぎて、目が滑るのよ」
アリアは小さく息を吐き出し、机の上に突っ伏した。その横顔には、これまでの張り詰めた緊張が抜け落ちたあとの、年相応の幼さが滲んでいる。
俺は温かい茶の入った素焼きの器を二人の前に置いた。
「無理に今すぐ全部を計算しなくてもいい。疲れてるなら少し休め」
「あ、レオンさん。ありがとうございます」
アリアは顔を上げ、器を両手で包み込んだ。温かい湯気に顔をほころばせる。
「でも休んでなんかいられません。これだけの資金があれば、冬が来る前にやりたかったことが全部前倒しで進められます。納屋の補修も、井戸の拡張も、それに――」
「焦るな。金は逃げやしない」
俺が椅子を引いて腰を下ろすと、シオンが計算盤の珠を小気味よい音で弾いた。
「僕としても、早めに枠組みを決めておきたいな。数字が宙に浮いている状態は気持ちが悪いし、使い道が決まれば防衛用の備蓄枠も綺麗に整理できるからね」
理屈っぽい物言いは相変わらずだが、その口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。自分たちの手で暮らしを立て直す手応えを、この少年なりに楽しんでいるのが伝わってくる。
表の通りから、軽快な車輪の軋む音と馬の蹄の音が近づいてきた。
見覚えのある太い声が、開け放たれた扉の向こうから響く。
「おーい、みんな無事か! 朝早くからすまねえな!」
頭に手ぬぐいを巻いた恰幅のいい男――ザックが、満面に人の良さそうな笑みを浮かべて母屋へと入ってきた。両手にはずっしりと重そうな革袋を二つ提げている。
「ザックさん! 早かったですね」
アリアが立ち上がり、出迎えた。
ザックは重い革袋を長机の真ん中にどかりと置いた。鈍い金属音が室内に響き渡る。
「王都の特使様ご一行を関所まで見送って、その足で隣領の役場に寄って手続きを済ませてきたのさ。あの強欲男爵の私財没収の証書と、これが正真正銘、第一陣として引き渡された賠償金の正金だ」
ザックは腰に手を当て、豪快に笑った。
「いやあ、胸がすいたねえ! あの男爵、護送馬車に押し込まれるときまで『余の手落ちではない、何かの陰謀だ』って喚き散らしてやがったが、役人連中に一蹴されてたよ。あんたらから巻き上げようとした土地どころか、自分の屋敷も爵位も全部すっからかんだ。自業自得ってのはこのことだな」
「あんたが裏で手を回してくれたおかげだ。助かった」
俺が礼を口にすると、ザックは照れくさそうに太い鼻の頭を掻いた。
「よしてくれよ、レオン。俺は商人として、一番儲かる勝ち馬に乗っただけだ。それに……あんたたちが必死で守り抜いたこの場所を、あんな下種に横取りされてたまるかってんだ」
ザックは革袋の口を緩め、中から眩い輝きを放つ金貨の束を覗かせた。
「物資の補給線も完全に再開させたぜ。木材も鉄材も、希望通りの量を王都から直送の手配にしてある。これからは何の気兼ねもなく、領地の拡張に専念できるってもんだ」
「仕事が早くて助かるよ、ザックさん」
シオンが羊皮紙に素早く数字を書き足しながら言った。
「これで建築資材の仕入れコストを当初の試算より一割五分抑えられる。浮いた分を水路の補修資材に回せるね」
「へっ、相変わらず抜け目のない坊主だ。だが、そのしっかりした頭並みがあるからこそ、俺も安心して商売ができるのさ」
ザックは嬉しそうに目を細め、アリアとシオンの頭を大きな手でぽんぽんと叩いた。
二人は顔を見合わせ、誇らしげに頷き合う。
アリアは居住まいを正すと、一枚の清書された羊皮紙を俺の前に差し出した。
「レオンさん。シオンと一緒に、今回の賠償金の活用案をまとめました。見ていただけますか?」
羊皮紙には、丁寧な文字で項目ごとの予算と目的が整然と記されていた。
「まず最優先なのは、開拓地全体の水路の再整備です。これまで仮設で引いていた小川の水を、居住区と畑全体に行き渡るよう石組みの水路に改修します。それから、先日完成した学校の隣に小さな診療所と、作業工房の増設を行いたいです」
「診療所と工房か」
「はい。今回の戦いでも怪我人が出ましたし、これから人が増えれば必ず必要になります。工房があれば、特産品の加工ももっと安全で効率的になります」
アリアの目はまっすぐに俺を見つめていた。誰かに言われたからではなく、自分たちの暮らしをより良くするために何が必要かを、真剣に考え抜いた視線だ。
シオンが横から補足を入れる。
「それに、男爵領から逃れてくる流民や、新しく移住を希望する人たちのための受け入れ区画も整備したいんだ。当面の食料と住宅の建設資材を無償で貸し出す基金を作れば、領民が定着しやすくなる。計算上、半年後には彼らが耕す新しい畑からの収穫で、貸し出した分以上の利益が領地全体に還元されるよ」
無駄遣いを極端に嫌うアリアが、出し渋るのではなく「育てるための投資」を提案している。かつて日々のパンの数ばかりを気に病んでいた少女が、今や領地全体の未来を見据えて計画を立てている。
「どうでしょうか、レオンさん……?」
少し不安そうにこちらの反応を窺うアリアに、俺は短く答えた。
「いい計画だ。これで進めてくれ」
アリアの表情がぱっと華やいだ。
「本当ですか? ありがとうございます!」
「ただし、お前たちが倒れるまで根を詰めるのは禁止だ。職人や自警団の連中にも仕事を割り振って、無理のない日程を組め」
「ふふ、わかっています。もう一人で抱え込んだりはしません」
アリアは晴れやかに笑い、シオンと顔を見合わせて小さく拳を合わせた。
ザックが満足げに頷きながら立ち上がる。
「よし、決まりだな! 俺は広場の連中に資材の搬入予定を伝えてくるよ。カイトのやつが自警団の若い連中集めて、さっそく瓦礫の片付けを始めてるからな」
「ああ、頼む」
ザックが扉を押し開けて出ていく。開け放たれた玄関から、子どもたちの甲高い歓声が飛び込んできた。
庭先ではミルが子犬を追いかけて走り回り、遠くの畑からは開墾を進める領民たちの力強い掛け声が響いている。
机の上に置かれた金属盤を手に取ると、淡い光の中に浮かぶ数値が、静かに、しかし確実に上昇していた。人口の欄も、資金の欄も、そして集落全体の活力を示す指標も。
戦乱の中で拾い集めた小さな命たちが、この過酷だった荒れ地に根を張り、自分たちの足で歩みを進めている。
手の中に残る重みは、かつて握りしめていた剣の冷たさとはまるで違う、温かく確かな未来の手触りだった。
「レオンさん、資材置き場の確認に行ってきますね!」
「僕もついていくよ。測量用の縄を持っていくから待って」
二人が羊皮紙を大切そうに抱えて駆け出していく。
日差しは高くなり、澄み渡る秋の青空が、どこまでも続く大地を優しく照らし出していた。




