第26話
砂埃を巻き上げながら、街道の向こうから幾重もの蹄の音が響いてきた。
薄暮の荒野を切り裂くように現れたのは、整然と隊列を組んだ十数騎の騎兵たちだ。中央には豪奢な装飾が施された馬車が一台。その車輪が夕暮れの赤茶けた大地を踏みしめていく。
「は、ははっ! 見ろ、来たぞ! 王都からの特使だ!」
地面に膝をついていたゴードン男爵が、脂汗にまみれた顔を跳ね上げた。乱れた衣服も気にせず立ち上がり、勝ち誇ったように喉を震わせる。
「中央の重鎮たちには私が太いパイプを持っているのだ! 貴様らのような泥棒猫どもを根こそぎ処刑し、この肥沃な土地をすべて私のものにするための使者だ! 身の程を知るがいい、薄汚い傭兵崩れが!」
男爵は唾を撒き散らしながら、近寄ってきた馬車へと駆け寄ろうとした。
だが、馬車の御者台からひょいと顔を出したのは、見慣れた手ぬぐい姿の男だった。
「へへっ、旦那! ギリギリ間に合いましたぜ!」
「……ザックか」
御者台から飛び降りたザックは、埃を払うこともせず白い歯を見せた。その丸っこい顔には疲労が濃く滲んでいたが、双眸には確かな手応えの色が宿っている。
ザックが深々と頭を下げて馬車の扉を開けると、そこから降り立ったのは豪奢な法衣を纏った冷厳な顔つきの初老の男だった。胸元には王都の裁定機関を示す天秤の徽章が鈍く輝いている。
男爵は満面の卑屈な笑みを浮かべ、両手を広げて歩み寄った。
「おお、特使閣下! よくぞ参られました! この私がゴードン男爵です! ご覧の通り、この無法者どもが私の正当な領地を不法占拠し、あまつさえ私に刃を向け――」
「黙られよ、ゴードン元男爵」
特使の放った氷のように冷たい声が、荒野の空気をぴたりと凍りつかせた。
男爵の足が止まる。浮かべた笑みが引きつり、喉から掠れた音が漏れた。
「……は? げ、元……? 特使閣下、何を冗談を……」
「冗談ではない。王都最高裁定機関の名において通達する」
特使は男爵を一瞥すら交わすことなく、傍らの従者が恭しく差し出した一巻の羊皮紙を受け取った。封蝋が解かれ、厳格な印章が夕日に照らし出される。
「セリア監査官より提出された詳細な内偵記録、ならびに街道で捕縛された貴殿の私兵工作員七名の自白調書を精査した結果、貴殿の容疑は完全に立証された」
特使の声は抑揚がなく、それゆえに抗いようのない重みを持って響き渡った。
「不当な軍事侵発、流民に対する略奪行為の扇動、ならびに王都への虚偽報告および贈収賄の教唆。これらすべての罪状により、本日付をもって貴殿の爵位を完全に剥奪、平民への降格とする」
「な……っ!?」
男爵の顔から血の気が完全に引いた。青ざめた皮膚がぶるぶると痙攣する。
「そ、そんなはずがあるか! 金だ! 私は王都の閣僚たちに莫大な額を納めてきたのだぞ! 何かの間違いだ、その書類を偽造したな!?」
「往生際が悪いぜ」
ザックが鼻を鳴らし、懐から別の書状の束を取り出して見せた。
「あんたが王都の役人に流した裏金の台帳も、セリアの旦那が全部押さえちまったのさ。中央の連中もな、自分の首が飛ぶとなったらあっさりあんたを切り捨てたよ。商売の潮目を読み違えたな、男爵さんよ」
「う、嘘だ……嘘だぁっ!」
特使は男爵の絶叫を意に介さず、朗読を続けた。
「さらに、当開拓領に対する侵略未遂および不法行為の損害補償として、旧ゴードン家の全資産を凍結、ならびに金貨五千枚を賠償金として当領主へ即時引き渡すことを命ずる」
「ご、五千枚……!? ば、馬鹿な! 我が家の全財産どころか、領地そのものを売り払わねば払えぬ額だぞ! 破滅だ……そんなものを払えば私は路頭に迷う!」
「身から出た錆だ」
特使が手を軽く振ると、背後に控えていた王都騎士団の兵が素早く前進した。
ガチャリと硬質な金属音が響き、男爵の両手首に重々しい鉄の手枷が嵌められる。
「離せ! 私を誰だと思っている! 私は高貴な貴族だぞ! 貴様らのような下層の者どもが私に触れるなど万死に値する! レオン! 貴様だな、貴様が仕組んだのだな! 許さん、絶対に許さんぞぉっ!」
泥水を跳ね上げて暴れる男爵を、二人の騎士が無造作に取り押さえた。
ただ他人の富を妬み、奪うことしか頭になかった悪徳貴族の、あまりにも無様な終幕だった。
騎士たちに力任せに引きずられていく男爵の後ろ姿を、俺は見送った。胸の中を通り過ぎたのは、憎しみではなく、ただ冷え切った風のような虚しさだった。
他者を踏みにじって築いた城など、土台から崩れ去ればただの瓦礫に過ぎない。
護送車に男爵が押し込められ、車輪の音が遠ざかっていく。
荒野に、完全な静寂が戻ってきた。
夕暮れの赤い光が、切り立った岩壁と広大な耕地を優しく染め上げている。
俺は右手に握っていた無骨な剣を見つめ、ゆっくりと息を吐き出した。刃こぼれひとつない鋼を鞘へと滑り込ませると、カチリと乾いた音が静寂を打った。
その音を合図にしたかのように、砦の岩場の上から無数の足音が響いてきた。
「――レオンさんっ!」
張り裂けんばかりの声が風に乗って届いた。
見上げると、アリアを先頭に、子どもたちや領民たちが一斉に斜面を駆け下りてくるところだった。
「おい、走ると危ねえぞ」
いつものように声をかけようとしたが、喉の奥が熱くなってうまく声が出なかった。
最初に飛び込んできたのはミルだった。
「おにいちゃん! おにいちゃんっ!」
小さな体が俺の腰に激突する勢いで抱きついてくる。俺はとっさに身を屈め、その華奢な体を両腕で受け止めた。見上げられた瞳からは、大粒の涙がぼろぼろと溢れ落ちていた。
「こわかった……でも、おにいちゃん、すっごくかっこよかった……!」
「ああ……もう大丈夫だ。怖がらせたな」
ミルの小さな頭を撫でていると、次々に子どもたちが押し寄せてきた。カイトが、シオンが、そして名も知らぬ戦場で拾い集めてきた十七人全員が、俺の周りを取り囲む。
カイトは唇をぎゅっと噛み締め、真っ赤にした目を手首のサポーターで乱暴に拭っていた。
「勝ったんだな……俺たちの場所、守れたんだよな……!」
「そうだ。お前たちが作ってくれた罠と、張ってくれた警戒のおかげだ」
シオンもまた、いつも肌身離さず持っている算盤を抱きしめたまま、眼鏡の奥の瞳を潤ませて小さく頷いていた。
そして、一歩遅れて輪の外側に立っていたアリアが、両手で口元を覆ったまま立ち尽くしていた。
作業着の裾は泥で汚れ、髪も乱れている。領地の台所を預かり、誰よりも強くあろうと背伸びを続けてきた少女の肩が、激しく震えていた。
「アリア」
俺が名前を呼ぶと、彼女は糸が切れたようにその場に崩れ落ちそうになった。
俺はミルを片腕で抱き上げたまま、もう片方の手を伸ばしてアリアの肩を支えた。
「……よかった……本当によかった……っ!」
アリアの瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。彼女は俺の胸元に額を押し当て、小さな子どものように声を上げて泣きじゃくった。
「私、怖くて……みんなの家が、やっとできた私たちの場所が、またなくなっちゃうんじゃないかって……すごく怖かったの……っ」
「すまなかった。不安にさせたな」
「ううん……違うの……守ってくれて、ありがとう……レオンさん……っ」
背後には避難所から戻った領民たちが集まり、ドノバンが太い腕で目頭を拭っていた。誰からともなく湧き上がった拍手が、荒野に響き渡る。
俺は子どもたち全員を腕の中に引き寄せ、力いっぱい抱きしめた。
十七人の命の重みと、生きている確かな温もりが、冷え切っていた胸の奥をじんわりと満たしていく。
かつて血の雨が降る戦場を彷徨い、生きる意味も見出せないまま剣を振るっていた。
ただ子どもたちに腹いっぱい飯を食わせたい、それだけの思いで買い取った石ころだらけの荒れ地。何もない原野を耕し、石を運び、泥にまみれて種を蒔いた日々が脳裏をよぎる。
この温もりこそが、俺が命を懸けて守りたかったものだ。
誰にも奪わせない。この子たちの未来も、笑い声も、腹いっぱいに食べる温かい飯の味も。
「……帰ろう」
俺が短く呟くと、子どもたちが涙で濡れた顔を一斉に上げた。
「家へ帰ろう。今日はとびきり美味い飯を作るぞ」
「うんっ!」
ミルが弾けるような笑顔で叫び、カイトやアリアも涙を拭って力強く頷いた。
夕日は完全に地平線の向こうへと沈み、空には満天の星が瞬き始めていた。過酷な戦いを乗り越えた荒野の風は、不思議なほど優しく、俺たちの背中を押していた。




