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第23話

谷の入り口を塞ぐように広がる平原には、依然として不穏な空気が渦巻いていた。


先遣隊と精鋭部隊を退けたとはいえ、敵の本隊はまだ数百の兵力を温存している。巨石群の物陰に身を潜めながら、俺は遠くに見える敵陣の様子をじっと観察していた。冬の張り詰めた空気の中、向こうの天幕群からは微かなざわめきが漂ってくる。


「父さん、向こうの様子が少し変です」


隣で弓を構えていたカイトが、眉をひそめて小さく呟いた。彼の視線の先を見据えると、確かに敵陣の動きがどこかぎこちない。通常なら立て直した部隊が陣形を組み直して再侵攻の準備を整える頃合いだが、兵たちが落ち着きなく右往左往しているのが見て取れた。


「焦るな。罠かもしれん。シオン、周囲の哨戒は怠るなよ」


「了解です。抜け道になりそうな箇所にはすべて目を行き届かせています」


背後から返ってきたシオンの冷静な声に頷く。子どもたちや領民たちの集中力は切れていない。腕に巻かれた特産品のサポーターがじんわりと古傷を温め、強張りを解いてくれていた。万全の状態で迎え撃つ準備はできている。


だが、戦況は俺たちの予想とはまったく異なる方向へと転がり始めていた。


敵陣の背後、谷の外側へ続く街道のあたりから、一台の粗末な荷馬車が砂煙を上げて近づいてくるのが見えた。派手な旗も掲げず、まるで場違いな行商人のような佇まいだ。見張り台から双眼鏡代わりに魔道具の測候レンズを覗き込んでいたアリアが、驚きの声を上げた。


「レオンさん、あれ……ザックさんの馬車です!」


「ザックだと?」


思わず聞き返した。王都へ証拠書類を届けるために出発したはずの男が、なぜこの戦場の真っ只中に姿を現すのか。しかも、敵である傭兵部隊の天幕へ堂々と近づいている。


危険すぎる行動に一瞬肝を冷やしたが、あの抜け目のない商人が無謀な真似をするはずもない。俺は子どもたちに警戒を維持させつつ、ザックの動きを注視した。


荷馬車から降り立ったザックは、頭の手ぬぐいを整えながら、物々しい武装の傭兵たちに何食わぬ顔で歩み寄っていった。即座に取り囲まれ、槍を突きつけられるが、ザックは動じる様子もなく両手を広げ、懐から数枚の分厚い書類を取り出して見せた。


遠目にも、傭兵たちの態度が一変したのが分かった。槍の穂先が下がり、奥の豪奢な天幕から傭兵団の幹部らしき大男たちが数人、慌てた様子で出てくる。


「……一体、何を話しているんだ?」


カイトが不思議そうに目を凝らす。その疑問の答えは、敵陣のざわめきが急速に怒号へと変わっていく様子を見れば明らかだった。


◆ーーーー◆


敵陣の中心部では、冷え切った空気をも吹き飛ばすほどの激震が走っていた。


「おい、これはどういうことだ!」


傭兵団の副長が、ザックから突きつけられた羊皮紙を鷲掴みにし、血相を変えて吠えた。その紙面には、王都裁定機関の正式な印章と、鮮やかな朱色の封ろうが押されている。


「どういうことも何も、書いてある通りですよ」


ザックは人懐っこい笑みを貼り付けたまま、肩をすくめてみせた。周囲を筋骨隆々の荒くれ者たちに取り囲まれていようと、その声には微塵の震えもない。


「ゴードン男爵が王都の銀行や商工ギルドに預けていた資産は、不正蓄財と不当侵略の容疑で全て差し押さえられました。男爵名義の口座は完全に凍結。つまり、あんたたちに支払われるはずだった莫大な成功報酬は、一銅貨たりとも出てこないってわけです」


「ふざけるな! 男爵からは前金を受け取っているし、領地を落とせば残額の三倍を支払うと約束されている!」


別の幹部が唾を飛ばして食ってかかるが、ザックは冷ややかな目でそれを一蹴した。


「前金なんて雀の涙でしょう? 残額の支払手形、どこの発行か確認しましたかい? 全部、王都の中央銀行宛てのはずだ。その銀行が支払いを拒絶したんだから、その紙切れはただのゴミですよ。ほら、これが王都からの緊急通達の写しだ」


幹部たちが奪い合うようにして書類を覗き込む。公認の刻印、王都最高裁定官の署名、そして何より男爵家の資産保全命令の箇条書き。偽造の余地などどこにもない、本物の公文書だった。


傭兵たちの間に、急速に動揺と猜疑心が広がっていく。


彼らは義理や忠誠で戦っているのではない。純粋な金のために命を懸けているのだ。その報酬が絶対に支払われないと分かった瞬間、戦う理由は根底から消滅する。


「男爵は……あの豚野郎は、俺たちにタダ働きをさせる気だったのか?」


「それだけじゃないぜ。向こうの防衛陣地を見たろ? あの堅固な守りと奇妙な罠の数々。まともにぶつかれば、こっちにもどれだけの死傷者が出るか分かったもんじゃない」


「一文にもならない戦いで命を落とすなんて、冗談じゃねえぞ!」


幹部たちの口から次々と不満が漏れ出し、それは瞬く間に陣全体の下っ端たちへと伝波していった。前線での手痛い敗北の記憶が、彼らの心をさらに冷え込ませる。


「それにね」


ザックはわざとらしく周囲を見回し、声を潜めて告げた。


「王都の正規軍が、裁定機関の命を受けて男爵領の接収に向けて動き出しているって話ですよ。今ならまだ、雇われの身だったあんた方までお咎めを受けることはない。さあて、損切りをするなら早い方がいいんじゃないですかね?」


決定的な一言だった。商人の計算高い提案は、傭兵たちの現実的な損得勘定と完璧に合致していた。


◆ーーーー◆


「……退いていくぞ」


高台から敵陣を見守っていた俺の口から、呟きが漏れた。


何が起きたのか、最初は信じられなかった。敵の主力部隊が陣形を整えるどころか、天幕を畳み、荷物をまとめ始めている。中には持てるだけの物資を抱え、武器を地面に投げ捨てて足早に街道へ向かって歩き出す傭兵たちの姿もあった。


「本当に……みんな帰っていくの?」


ミルの驚いたような声が耳に届く。


「ああ、そうだ。戦う理由を失った連中が、潮を引くように去っていく」


カイトが弓を下ろし、信じられないものを見るように目を丸くしていた。隣のアリアも胸に手を当て、深く息を吐き出している。


数百人規模の軍勢が、武力による激突ではなく、たった数枚の書類と情報の提示によって内側から瓦解していく。血で血を洗う戦場を幾度も見てきた俺にとって、それは戦慄すら覚えるほど鮮やかな光景だった。


ザックのやつ、見事にやり遂げてくれたらしい。王都の裁定機関を動かし、男爵の資金源を完全に断ち切るという最大の急所を突いたのだ。


無駄な血を流さずに済んだ。領民たちを危険に晒すことも、子どもたちにこれ以上の重荷を背負わせることもなく、敵の大半を無力化することに成功したのだ。


「みんな、油断するな。まだ完全に終わったわけじゃない」


俺は自警団と領民たちに声をかけ、気を引き締め直させた。傭兵たちが逃げ去った後、敵陣の最奥には、まだ残されているものがある。


「いくぞ」


俺は剣の柄に手をかけ、巨石の陰からゆっくりと歩み出た。カイトとシオン、そして自警団の腕自慢たちが無言で後に続く。


谷を抜け、散乱した武具や放棄された荷車を通り過ぎて敵の本陣へと近づく。そこには、傭兵たちに見捨てられ、なす術もなく立ち尽くす少数の私兵たちと、一台の豪奢な馬車の姿があった。


馬車の前では、きらびやかな装飾を施した鎧を身にまとった男が、狂ったように喚き散らしていた。


「待て! 戻れ、貴様ら! 契約違反だぞ! 私を見捨てる気か! 金なら……金ならいくらでも払ってやる!」


ゴードン男爵だった。


贅肉のついた顔を真っ赤に染め、脂汗を垂らしながら逃げ去る傭兵たちの背中に向かって叫んでいる。だが、誰一人として振り返る者はいなかった。男爵の周囲に残っているのは、逃げ場を失い、青ざめた顔で震えている十数人の私兵だけだ。


傲慢に他者を見下し、この土地を力づくで奪い取ろうとした男の、哀れなまでの孤立。


足音を聞きつけた私兵たちが、恐る恐るこちらを振り返る。俺たちが武器を構えて歩み寄る姿を目にした瞬間、彼らは戦意を完全に喪失し、その場に武器を取り落とした。


カラン、と乾いた金属音が冬の荒野に響き渡る。


「ひ、ひぃっ……!」


男爵がぎょっとしてこちらを向いた。かつて俺に石ころだらけの荒れ地を嘲笑混じりに売りつけた男の目に、紛れもない恐怖の色が浮かんでいた。


俺は数歩手前で足を止め、冷ややかに男爵を見据えた。

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