第20話
谷底に仕掛けた第一の鳴子罠が踏み砕かれた。
三百近い傭兵の群れは、もはや一つの巨大な生き物のようだった。
先頭を走る者たちの目は血走り、ただ前方の防衛線だけを睨みつけている。
罠の有無など気にも留めず、味方の屍を踏み越えて突進してくる姿は、狂気そのものだった。
地響きが足元から伝わり、巻き上がる土埃が視界を霞ませる。
圧倒的な質量の暴力が、すぐそこまで迫っていた。
「ひっ……!」
背後で、自警団の若者が短く息を呑む音が聞こえた。
無理もない。
彼らはつい数ヶ月前まで、ただの流民や農民だったのだ。
鍬や鋤を握っていた手に急造の槍を持たされ、これほどの殺意を向けられれば、足がすくむのは当然の反応だった。
震える彼らの肩越しに、俺は迫り来る敵軍を見据える。
「落ち着け。陣形を崩すな」
俺は努めて平坦な声で告げた。
愛する家族の居場所を守るため、ここで一歩も退くわけにはゆかぬ。
だが、正面からぶつかり合えば、数の差で押し潰されるのは明白だ。
いくら大昔の砦の基礎を利用した天然の要塞とはいえ、物理的な質量の前には限界がある。
このまま押し込まれれば、隙間を埋めている味方が圧死しかねない。
頬を撫でる風の冷たさを感じ取る。
谷を吹き抜ける風が、俺たちの背後から敵陣に向かって強く吹き始めた。
待ち望んでいた瞬間だ。
もしこの風が吹かなければ、俺たちは三百の軍勢に飲み込まれ、全滅していただろう。
自然現象に頼る危うい作戦だが、俺は家族の才能を信じていた。
俺は振り返り、後方の高台に向かって大きく右腕を振り下ろした。
◆ーーーー◆
高台の岩陰では、シオンと工房長が息を殺して眼下の戦況を見つめていた。
俺の合図を確認した次男は、青白い顔に鋭い笑みを浮かべ、隣の無口な大男に頷いてみせた。
二人の前には、いくつもの巨大な火鉢が等間隔に並べられている。
工房長は無言のまま、足元に積まれた麻袋の口を開いた。
中には、黄色く乾燥した粉末がぎっしりと詰まっている。
特産品の油を抽出した後に残る、強烈な刺激臭を放つ搾りかすだ。
最初は廃棄に困るただのゴミだった。
領地の特産品として植物から油を絞り出す過程で、どうしても大量の搾りかすが出てしまう。
強烈な匂いを放つため、そのまま捨てれば領地中が悪臭に包まれる。
困り果てた末に、ある日誤って火に焚べた際、凄まじい催涙効果を持つ煙が発生し、周囲にいた者全員が涙と鼻水にまみれてのたうち回るという大惨事になった。
あの時はひどい目に遭ったが、今となってはその厄介な性質が最大の武器となる。
工房長は大きなスコップを使い、赤々と燃える火鉢の中へ、その粉末を惜しげもなく放り込んだ。
ジュウウウッという鈍い音と共に、火鉢から濃密な黄色の煙が噴き上がる。
「風向き、風速、共に計算通りだ。今なら谷全体を覆える」
シオンが理屈っぽい口調で告げた。
その声には、自身の計算に対する絶対の自信が滲んでいる。
工房長は短く鼻を鳴らし、手回しの送風機で火鉢に風を送り始めた。
職人の手によって極限まで乾燥させられ、燃焼効率を高められた搾りかすは、凄まじい勢いで煙を生み出してゆく。
黄色い煙の塊は、谷を吹き下ろす風に乗り、巨大な壁となって前進を開始した。
それはまるで、獲物を飲み込もうとする大蛇のように、うねりを上げながら敵陣へと迫る。
「なんだ、あれは……?」
突撃してくる敵の先頭集団が、迫り来る不気味な煙の壁に気づいて足を止めた。
だが、後ろからは次々と味方が押し寄せてくる。
止まることなど許されない。
躊躇する間もなく、三百の傭兵たちは濃密な煙の中へと飲み込まれた。
直後、敵陣のあちこちから絶叫が上がった。
「ぐああっ! 目が、目がァッ!」
「息が……ッ、喉が焼ける……!」
催涙煙幕の威力は絶大だった。
搾りかすを燃やした煙には、粘膜を激しく刺激する成分が含まれている。
一度でも吸い込めば、肺の奥まで焼け焦げるような激痛が走り、涙と鼻水がとめどなく溢れ出す。
屈強な傭兵たちであっても、目を開けることすらできなくなるのだ。
不意を突かれた傭兵たちは、武器を放り出して地面にのたうち回った。
前列が突然崩れ落ちたことで、後続の部隊が次々と衝突する。
将棋倒しになり、密集していた陣形は一瞬にして崩壊した。
「退け! 一旦下がれ!」
「馬鹿野郎、後ろがつかえてるんだよ!」
視界を奪われ、激痛にパニックを起こした男たちの怒号が飛び交う。
混乱は瞬く間に伝染し、恐怖に駆られた傭兵たちは、見えない敵に向かって無差別に剣を振り回し始めた。
金属がぶつかり合う音と、味方同士で斬り合う鈍い音が谷に響き渡る。
『やめろ、俺だ!』という悲痛な叫びすら、狂乱の渦の中では誰の耳にも届かない。
完全な同士討ちだ。
俺たちは指一本触れていない。
ただ煙を流しただけで、敵の最大戦力は完全に機能不全に陥った。
血走った目で突進してきていた男たちが、今は無様に地面を転げ回り、味方同士で傷つけ合っている。
「すごい……」
自警団の若者が、信じられないものを見るような声を出した。
俺も内心で深く同意する。
高台を見上げると、シオンが興奮した様子で身を乗り出しているのが見えた。
彼は風の動きと地形を緻密に計算し、この煙幕を最も効果的に運用する戦術を組み上げた。
そして、過去のトラウマから他人を避けていた工房長。
彼は一切の妥協を許さぬ職人魂で、廃棄物だった搾りかすを恐るべき兵器へと昇華させた。
二人の才能が見事に融合し、血を流さずに敵を無力化するという奇跡を起こしたのだ。
かつては居場所を持たなかった彼らが、今やこの領地を守るための強大な力となっている。
黄色い煙の中で、敵の軍勢は完全に瓦解していた。
三百という理不尽な数の暴力は、もはや見る影もない。
このまま煙が晴れるのを待てば、戦意を喪失した残存兵を捕縛するだけで戦いは終わる。
誰もがそう確信し、緊張の糸を緩めかけた。
だが、俺の背筋に冷たいものが走った。
長年の戦場暮らしで培われた、危険を知らせる直感。
風向きがわずかに変わり、谷底に滞留していた煙が薄れ始める。
視界が少しずつ開けてゆく中、煙の奥から異様な殺気が真っ直ぐにこちらへ向かってくるのを感じ取った。
「全員、構えろ!」
俺の鋭い声に、自警団の面々が慌てて武器を握り直す。
直後、薄れゆく煙の壁を突き破り、数人の男たちが飛び出してきた。
彼らは他の傭兵たちとは明らかに異なっていた。
水で濡らした厚手の布で口と鼻を固く覆い、目を細めて痛みに耐えながら、一直線に俺たちの防衛線へと肉薄してくる。
装備も身のこなしも、その辺のゴロツキとは次元が違う。
男爵が金に糸目をつけず雇い入れた、本物の精鋭部隊だ。
彼らは混乱して倒れ伏す味方を容赦なく蹴り飛ばし、時には邪魔な味方を斬り捨てて踏み台にし、一気に加速する。
催涙煙幕の激痛を常人離れした気力だけでねじ伏せ、ただ標的の命を奪うことだけを目的に突進してくる。
その執念と殺意は、まさに死神のようだった。
煙幕の効果が薄れた一瞬の隙を突き、彼らは見事に死地を抜け出してきたのだ。
「死ねえええッ!」
先頭の男が、獣のような咆哮と共に跳躍した。
手にした大剣が、空気を裂いて俺の首筋へと振り下ろされる。
巨石群の隙間という狭い空間。
避ける場所はない。
接近戦に持ち込まれたこの状況で、俺は剣を抜き放ち、迫り来る凶刃を正面から迎え撃った。
刃と刃が激突する甲高い音が、煙の立ち込める谷底に響き渡る。




