第19話
張り詰めた空気の中、俺は剣の柄を強く握り直した。
正面のキルゾーンには、依然として敵の本隊が押し寄せている。ここで俺が前線を離れれば、構築した防衛線は一瞬で瓦解するだろう。
だが、側面の斜面を這い上がる別働隊を放置すれば、アリアやミルたちが隠れる避難所が蹂躙される。
誰かを向かわせる必要がある。
そう思考を巡らせた矢先、視界の端で銀色の輝きが動いた。
「ここは私が引き受けよう」
静かな、しかし確固たる意志を秘めた声。
振り返ると、手入れの行き届いた鎧を身に纏ったクロードが立っていた。
彼は俺と視線を合わせると、短く頷く。
「貴殿は正面を頼む。背後は、この私が命に代えても守り抜く」
その生真面目な顔立ちには、一切の迷いがなかった。
俺は小さく息を吐き、頷き返した。
「頼んだ」
短いやり取りの後、クロードは単身で闇の中へ駆け出していく。
彼の背中を見送り、俺は再び正面の敵へと向き直った。
◆ーーーー◆
冷たい夜風が、岩肌を撫でていく。
私は避難所へと続く細い山道の途中に立ち、眼下の斜面を見下ろしていた。
松明の明かりを消し、闇に紛れて這い上がってくる数十の影。ゴードン男爵が差し向けた別働隊だ。
岩場の配置上、大部隊は展開できない。だが、非戦闘員を襲撃するには十分すぎる数だった。
彼らが私の立つ平坦な場所まで登りきった瞬間、私は一歩前に出た。
「そこまでだ」
静寂を切り裂くように声を放つ。
先頭を進んでいた男たちが、弾かれたように足を止めた。
雲の切れ間から差し込んだ月明かりが、私の鎧を照らし出す。
「……クロード卿か」
舌打ちと共に進み出てきたのは、見覚えのある顔だった。長年、男爵に雇われていた傭兵の一人だ。
「裏切り者の騎士様が、こんな所で何をしている。俺たちは忙しいんだ、そこをどけ」
下品な嘲笑が周囲に伝播する。
私は静かに首を振った。
「あなたたちに恨みはない。だが、この先へ通すわけにはいかない」
剣の柄に手をかける。
「男爵の私利私欲のために、これ以上無駄な血を流すな。剣を引け。今なら見逃す」
それは、かつての同僚に対する最後の情けだった。
だが、傭兵たちは鼻で笑う。
「馬鹿を言え。ここで手ぶらで帰れば、あの男爵に何をされるか分かったもんじゃない」
「それに、あの成り上がりの領地には金目のものが山ほどあるって噂だ。お前一人で俺たち全員を止められるとでも思っているのか?」
交渉の余地はない。
彼らの目には、弱者を搾取することを当然とする強欲な光が宿っていた。
「……そうか。ならば、力で退いてもらうまで」
私は静かに剣を抜いた。
鋭い金属音が夜の空気に響く。
「やっちまえ!」
号令と共に、数人の傭兵が殺到してきた。
かつての私なら、主君への忠誠と自らの正義の間で板挟みになり、剣筋が鈍っていたかもしれない。
だが、現在は異なる。
私の脳裏に浮かぶのは、温かいシチューを囲む子供たちの笑顔だ。
彼らが安心して眠れる場所。それを理不尽な暴力で奪おうとする者を、私は決して許さない。
踏み込んでくる敵の刃を、私は最小限の動きで弾き返した。
火花が散る。
体勢を崩した男の鳩尾に、剣の柄を叩き込む。くぐもった悲鳴と共に一人目が崩れ落ちた。
「なっ……!」
怯んだ二人目の足元を払い、三人目の手首を峰で打ち据えて武器を奪う。
流れるような連撃。
洗練された騎士の剣技は、力任せに振り回される傭兵の刃をことごとく無力化していった。
「どうした! 数で押し潰せ!」
後方から怒号が飛ぶが、狭い山道では数の優位を活かせない。
私は一歩も退かず、迫り来る敵を次々と岩肌に叩きつけていった。
子供たちの未来を守る。その強い決意が、私の動きから一切の迷いを消し去っていた。
「ひ、ひぃっ……!」
十人以上が地に伏した時、ついに別働隊の足が止まった。
血の匂いすらさせず、ただ圧倒的な実力差を見せつける私を前に、彼らの目に恐怖の色が浮かぶ。
「まだやるか?」
私が一歩踏み出すと、彼らは悲鳴を上げて斜面を転がり落ちていった。
武器を捨て、我先にと逃げ惑う背中を見送る。
私は剣を鞘に納め、小さく息を吐いた。
背後を振り返る。避難所の方角からは、何の物音も聞こえない。
「……守り抜いたぞ、レオン殿」
私は夜空を見上げ、誰にともなく呟いた。
◆ーーーー◆
「なんだと……? 別働隊が壊滅しただと?」
本陣の天幕に、私の怒声が響き渡った。
報告に駆け込んできた伝令が、床に這いつくばったまま震えている。
「は、はい……。斜面を登り切る直前で、クロードの奴が単身で立ち塞がり……。我々の部隊は手も足も出ず……」
「ええい、黙れ!」
私は手元にあったワイングラスを、伝令の頭に投げつけた。
鈍い音と共に赤い液体が飛び散り、男が悲鳴を上げる。
「たかが一人だぞ! 数十人の部隊が、たった一人の裏切り者に追い返されたというのか!」
怒りで視界が赤く染まる。
あのクロードめ。長年私に飼われていた犬のくせに、恩を仇で返しおって。
それに、あの成り上がりの傭兵風情。
私が騙して売りつけた石ころだらけの荒れ地。あんな場所で野垂れ死ぬはずだった下等な連中が、今や豊かな領地を築き上げている。
王都の商人たちの間でも、私の領地よりあちらの方が豊かだという噂が流れ始めているのだ。
そんな屈辱を、この私が許せるはずがない。
「貴族であるこの私に逆らう者は、徹底的に叩き潰さねばならんのだ……!」
私は立ち上がり、天幕の外に控えている傭兵隊長を怒鳴りつけた。
「おい! 正面の攻撃はどうなっている!」
「はっ。敵の罠と煙幕が厄介で、前線が膠着しております。これ以上の強攻は被害が……」
「被害など気にするな!」
私は隊長の胸ぐらを掴み、その顔に唾を吐きかけた。
「全軍だ! 残っている兵をすべて正面に投入しろ! 罠があろうが煙幕があろうが構わん! 前の奴が倒れたら、その死体を踏み台にして進め!」
「し、しかし男爵様、それではあまりにも……」
「私の命令が聞けんのか! あの岩場を乗り越え、奴らの富をすべて奪い取れ! 一人残らず皆殺しにしろ!」
狂気に満ちた私の命令に、隊長は青ざめた顔で頷くしかなかった。
そうだ。力こそがすべて。
私の財産と地位を脅かす目障りな虫ケラどもを、数の暴力で完全にすり潰してやる。
◆ーーーー◆
正面の戦況が、突如として一変した。
「……なんだ?」
びくともしない岩の陰から前線を監視していた俺は、思わず眉をひそめた。
それまで慎重にキルゾーンの様子を窺っていた敵の動きから、理性が消え失せたのだ。
松明の光が、異常な密度で一箇所に集まり始めている。
地鳴りのような足音と、狂気を孕んだ怒号が夜の闇を震わせた。
「親父! 敵の様子がおかしい!」
少し離れた岩の上から、カイトが叫ぶ。
「罠にかかった連中を無視して、後続が突っ込んできます! 煙幕も効果が薄い……いや、前の奴を盾にして無理やり突破しようとしてるんだ!」
俺は舌打ちをした。
男爵の奴、ついに正気を失ったか。
被害を最小限に抑えるという軍事的なセオリーを完全に放棄し、ただひたすらに数を頼りに押し寄せてくる。
罠の処理も、陣形の維持もない。
ただ、前へ。
倒れた味方を踏みつけ、血の海を越えて、怒涛の勢いで巨石群へと殺到してくる。
「弓隊、射撃を止めんな! 近接部隊は岩の隙間を固めろ!」
俺は声を張り上げ、自警団の面々に指示を飛ばす。
だが、敵の圧力は先ほどまでの比ではない。
三百近い傭兵団の全軍が、一つの巨大な波となって防衛線に激突しようとしていた。
いくら大昔の砦の基礎を利用した天然の要塞とはいえ、物理的な質量の前には限界がある。
このまま押し込まれれば、隙間を埋めている味方が圧死しかねない。
「くそっ……!」
剣を握る手に、じわりと汗が滲む。
愛する家族の居場所を守るため、絶対に退くわけにはいかない。
だが、この理不尽な数の暴力に対し、俺たちはどう対抗すればいいのか。
地響きと共に迫り来る敵の波濤を前に、俺は奥歯を強く噛み締めた。




