第18話
「止まるな! 死体を踏み越えて進め!」
男爵の狂気を孕んだ号令により、敵は被害を度外視した波状攻撃へと移行していた。かつての砦の基礎である巨石群の迷路に押し込まれた傭兵たちは、仕掛けられた罠にかかり次々と倒れていく。
だが、後続の部隊が味方を踏み越え、血走った目で無理やり前進してくる。巨石の陰から放たれる自警団の矢が敵の足を止めるが、倒れた者の上を別の兵士が乗り越えてくるのだ。
数の暴力。それが男爵の選んだ戦術だった。どれほど堅牢な陣地を築こうとも、絶え間なく押し寄せる波状攻撃は、確実に防衛側の体力を削っていく。
俺は前線の指揮を一時的にカイトたちに任せ、息の上がった自警団の交代要員を引き連れて後方へと下がった。一撃離脱を繰り返す戦法は体力の消耗が激しい。適度な休息を挟まなければ、いずれ防衛線は崩壊する。
冷たい夜風が汗ばんだ肌を撫でる。だが、少し歩いた先にある広場には、赤々と燃える焚き火と、胃袋を刺激する香ばしい匂いが満ちていた。
「お前さんら、さっさとこっちへ来い。腹が減っては戦はできんぞ」
大きな鍋を木べらでかき混ぜながら、ドノバンがしわがれた声を張り上げている。
広場には即席の休息所が設けられ、数人の流民たちが忙しそうに立ち働いていた。彼らは自発的に薪を運び、水を汲み、怪我人の手当てを手伝っている。前線から戻ってきた若者たちが、湯気を立てるスープと硬パンを受け取り、地面に座り込んで無言でかき込んでいる。
極度の緊張と疲労で青ざめていた彼らの顔に、温かい食事が少しずつ生気を取り戻させていく。凍えるような夜の戦場において、温かい食事は何よりの特効薬だ。
俺も空いた木陰に腰を下ろすと、ドノバンが自ら木椀を差し出してきた。
「ほれ、お前も食っとけ。大将が倒れたら元も子もないからな」
「恩に着る」
受け取ったスープを一口すする。塩気と肉の旨味が、冷え切った体にじんわりと染み渡った。具材には、この土地で収穫した野菜がたっぷりと使われている。
「爺さん、手際がいいな。助かる」
「ふん。わしは土をいじるのが本業だ。戦の役には立たんが、飯を炊くくらいはできる」
ドノバンは鼻を鳴らし、節くれだった手で鍋の火加減を調整しに戻っていく。
「せっかく育てた麦を、あんな連中に踏み荒らされてたまるか。お前さんら、しっかり食って、きっちり追い払ってこい」
そのぶっきらぼうな言葉には、彼なりの強い決意が込められていた。彼の背中は頼もしく、後方の支援が完璧に機能していることを物語っている。
食事を終えた自警団員たちは、互いに肩を叩き合い、再び武器を手に立ち上がる。彼らの目には、恐怖よりも自分たちの居場所を守り抜くという強い意志が宿っていた。
俺は空になった木椀を置き、さらに奥にある地下貯蔵庫へと向かった。
そこは分厚い扉と土壁に守られた、非戦闘員のための避難所として改修した場所だ。階段を下りていくと、ランプの柔らかな光に照らされた空間が広がっていた。
「皆さん、深呼吸をしましょう。外の音は大きいですが、ここは安全な場所です。何も心配はいりません」
エレナの穏やかな声が響く。彼女は不安そうに身を寄せ合う流民や小さな子供たちの間を歩き回り、一人ひとりの目を見て語りかけていた。
その理知的な響きには不思議な説得力があり、怯えて泣き出しそうだった子供たちも、次第に落ち着きを取り戻していく。彼女は元学者としての冷静さを保ちながら、教育者としての温かさで人々を包み込んでいた。
部屋の奥では、アリアが毛布や水筒を抱えてテキパキと指示を出していた。限られた物資を無駄なく配分するその手腕は、日頃の家計管理で培われたものだ。
「あんたたち、こっちに詰めて座って。ミル、ちゃんと手をつないで離れないようにね」
「うん、わかった!」
末っ子のミルが元気よく返事をする。パニックに陥る者は一人もおらず、全員が互いを気遣いながら静かに待機していた。
入り口に立つ俺の姿に気づき、アリアが小走りで駆け寄ってくる。彼女の作業着は少し汚れ、額には汗が滲んでいた。
「怪我はない?」
「ああ。お前たちの手配のおかげで、前線の連中も踏ん張れている。見事な采配だ」
俺が短く告げると、アリアはほっとしたように息を吐き、力強く頷いた。
「ここは私に任せて。絶対に誰も怪我させないし、不安にもさせないから」
彼女の瞳には、かつて戦場を彷徨っていた頃の怯えはない。家族を守るという強い責任感が、その細い肩を支えていた。無理をしていないか心配になるが、今の彼女は誰よりも頼もしい。
領地全体が一つになり、それぞれの役割を果たしている。前線で剣を振るう者も、後方で食事を作る者も、避難所で子供たちを守る者も、全員がこの居場所のために戦っているのだ。
確かな温もりと結束の手応えを胸に刻み、俺は再び地上へと戻った。
◆ーーーー◆
戦況は依然として激しい。
前線に復帰すると、敵の第二陣が巨石群の死角で身動きが取れなくなり、怒号を上げているのが見えた。罠と奇襲の連携は完璧に機能しており、正面からの突破は不可能に近い。
だが、敵の数が多すぎる。男爵は味方の死骸を盾にしてでも押し込もうとしていた。
ふと、俺は微かな違和感を覚えた。
正面のキルゾーンに押し寄せる本隊とは別に、松明の光がいくつか、巨石群の側面へと逸れていくのが見えたのだ。
目を凝らすと、手薄な斜面を這い上がるようにして進む一団がいる。岩場の配置上、あちら側は大規模な部隊を展開できないため、防衛の網を薄くしていた場所だ。
「……迂回したか」
別働隊はすでに斜面の中腹を越え、領地の奥へと足を踏み入れようとしていた。
そのルートの先にあるのは、アリアや子供たちが身を潜めている避難所だ。
舌打ちをし、遊撃隊を率いて側面へ向かおうと足を踏み出す。
だが、正面の敵の圧力も限界まで高まっており、今ここで俺が前線を離れれば、防衛線そのものが崩壊しかねない。
側面からの奇襲部隊が、闇に紛れて非戦闘員の避難場所へと接近していく。
誰がそのルートを食い止めるのか。
張り詰めた空気の中、俺は剣の柄を強く握り直した。




