第17話
地を揺らすような重い足音が、土埃とともに境界線を越えてきた。
先頭を進むのは、揃いの革鎧を着込み、無骨な武器を手にした屈強な男たちだ。三百という数は、この辺境の荒れ地を蹂躙するには十分すぎる規模だった。彼らの顔には、弱者をいたぶることを楽しむような下劣な笑みが浮かんでいる。
「レオン、敵の先鋒が第一ポイントを通過しました」
背後から、シオンの冷静な声が響く。彼は手元の羊皮紙に素早く視線を落とし、計算された数式と実際の動きを照らし合わせていた。青白い顔には緊張の色が滲んでいるが、その瞳は理知的な光を失っていない。
「予定通りだ。各員、持ち場を離れるな。限界まで引きつけろ」
俺は低く指示を出し、剣の柄を握り直す。
かつてこの地に存在した砦の基礎。その名残である巨大な岩の群れは、ただの障害物ではない。軍事的に計算され尽くした、天然の迷路だ。
敵は数の優位を活かそうと横隊を組んで進んでくるが、岩と岩の隙間を抜けるためには、どうしても縦に長く伸びざるを得ない。大軍であればあるほど、その動きは制限され、身動きが取りにくくなる。
「シオンの言う通りだな。あいつら、見事に死角へ吸い込まれていくぜ」
隣で息を殺していたカイトが、感嘆の声を漏らした。彼の手には、特産品の丈夫な素材で編み上げられた手作りの防具が巻かれている。俺の古傷を庇うために作ってくれたものと同じ素材だ。
「ああ。ここからは俺たちの土俵だ」
敵の先鋒が、最も巨大な岩の影に足を踏み入れた。そこは、シオンが割り出した完璧なキルゾーンだ。周囲を岩に囲まれ、逃げ場のない窪地。
「今だ。合図を出せ」
俺の指示を受け、カイトが短く笛を吹く。
鋭い音が空気を震わせた瞬間、岩の陰に潜んでいた工房長が動いた。
「……仕掛け、起動」
無精髭の職人が短く呟き、手元のロープを強く引く。
バツン、と張られた糸が弾ける音が響き、岩の隙間に仕掛けられていた特製の罠が一斉に作動した。
特産品の植物から油を抽出した後に残る、強烈な匂いを放つ搾りかす。それを燃やして圧縮したものが、仕掛けの破裂とともに周囲へ撒き散らされる。
「な、なんだこの煙は!」
「目が……痛ぇ! 息が、ゲホッ!」
黄色い煙が瞬く間に谷間を覆い尽くし、傭兵たちの悲鳴と咳き込む声が連鎖していく。
強力な催涙効果を持つ煙幕だ。視界を奪われ、呼吸を封じられた敵は、完全にパニックに陥っていた。剣を振り回し、味方同士でぶつかり合い、足をもつれさせて転倒する者が続出する。
「前へ進め! 立ち止まるな!」
後方から指揮官らしき男の怒号が飛ぶが、混乱した前衛には届かない。
岩の配置が作り出す天然の迷路は、音の反響すらも狂わせる。どこから声が聞こえるのか、どこへ逃げればいいのか。敵の連携は完全に分断されていた。
「工房長のおっさん、いい仕事するぜ」
カイトが口元を布で覆いながら、ニヤリと笑う。
「油断するな。ここからが本番だ」
俺は剣を構え、煙の薄いルートを選んで駆け出した。
狙うのは、孤立して身動きが取れなくなっている敵の小集団だ。
「カイト、右へ回れ。俺は左から崩す」
「了解!」
岩を盾にしながら、音もなく敵の側面に回り込む。長年の傭兵生活で培った足運びは、土埃の中でも一切の音を立てない。
「くそっ、どこから……」
目をこすりながら剣を振り回す傭兵の背後に忍び寄り、その首筋に峰打ちを叩き込む。
くぐもった呻き声を上げて、男が崩れ落ちた。
「一人目」
俺は立ち止まることなく、次の標的へと向かう。
正面からぶつかれば、数の暴力に押し潰される。だが、こうして分断し、視界を奪い、死角から一撃離脱を繰り返せば、大軍の利点は完全に消え失せる。
「うわあっ!」
右手の岩陰から、カイトの弾むような声と敵の倒れる音が聞こえてきた。
自警団の若者たちも、シオンが教え込んだ巡回ルートを正確になぞりながら、確実に敵の数を減らしている。
誰も無理をしていない。危険を感じればすぐに岩の裏へ隠れ、別の方向から奇襲をかける。
かつて戦場で見てきた、血で血を洗うような消耗戦とは違う。
これは、家族を守るための戦いだ。誰一人欠けることなく、全員で明日を迎えるための防衛戦。
その確かな手応えが、俺の胸の奥を熱くしていた。
「……第一波、後退していきます!」
岩の上から戦況を監視していたシオンが、声を張り上げる。
煙の向こう側で、たまらず背を向けて逃げ出す傭兵たちの姿が見えた。
彼らもプロだ。地の利が完全にこちらにあり、これ以上の前進は無駄な被害を増やすだけだと悟ったのだろう。
「追うな。深追いは禁物だ」
俺は自警団の面々を制止し、剣を鞘に収めた。
荒い息を吐きながらも、若者たちの顔には疲労よりも達成感が勝っている。
「やった……俺たち、あの数を追い返したぞ!」
カイトが拳を突き上げ、周囲から歓声が上がる。
無傷での完全撃退。
シオンの頭脳、工房長の技術、そして自警団の連携。誰の力が欠けても、この結果は得られなかった。
「よくやった。だが、まだ終わったわけじゃない」
俺は気を引き締めるように告げ、谷の向こう、土埃の舞う敵陣へと視線を向けた。
◆ーーーー◆
「……どういうことだ。なぜ、我が軍が後退している?」
安全な後方に設営された天幕の下で、ゴードン男爵は苛立ちを隠そうともせずに声を荒らげた。
手元のワイングラスが小刻みに震え、赤い液体が波打っている。贅肉のついた顔は怒りで歪み、派手な装飾品がガチャガチャと耳障りな音を立てていた。
「申し訳ありません、閣下。敵はあの岩場を完全に掌握しており、巧妙な罠と奇襲によって先鋒が壊滅状態に……」
報告に駆けつけた傭兵の隊長が、冷や汗を拭いながら膝をつく。
「言い訳など聞きたくない!」
男爵はグラスを地面に叩きつけた。
パリンという甲高い音とともに、高価なガラスが粉々に砕け散る。
「たかが傭兵崩れと、孤児の寄せ集めではないか! なぜ、三百もの精鋭が手こずっているのだ!」
顔を真っ赤にして怒鳴り散らす男爵の脳裏には、かつて自分が騙して売りつけた荒れ地の光景が浮かんでいた。
石ころだらけの、何の価値もない土地。
そこで惨めに飢え死にするはずだった者たちが、今や豊かな領地を築き、あろうことか自分の軍勢を退けようとしている。
「成り上がりの分際で……私に逆らうなど、絶対に許さん」
ギリッと奥歯を噛み鳴らし、男爵は血走った目で隊長を睨みつけた。
「全軍を投入しろ。出し惜しみはするな」
「し、しかし閣下。あの地形では、大軍を一度に動かしても被害が広がるだけで……」
「口答えをするな!」
男爵は腰の剣を抜き放ち、隊長の首元に突きつけた。
「私は全財産を投じて貴様らを雇ったのだ。結果を出せ。あの目障りな岩ごと、奴らを粉々にすり潰せ!」
狂気を孕んだ命令に、隊長は青ざめた顔で頷くしかなかった。
「……は、はい。直ちに、第二陣、第三陣を編成し、総攻撃を仕掛けます」
逃げるように天幕を出ていく隊長の背中を見送りながら、男爵は荒い息を吐き出した。
「見ておれ、レオン。貴様の築いた小賢しい居場所など、私の力で跡形もなく消し去ってくれる」
男爵の歪んだ笑い声が、戦場の喧騒に不気味に響き渡る。
第一波を退けたものの、敵の戦力は依然として強大だ。
次なる物量作戦を、レオンたちはどう凌ぐのか。
本当の試練は、これから始まろうとしていた。




