第16話
「敵襲!」見張りの叫びとともに、南の街道から立ち上る土煙が青空を濁らせていく。
地響きが足元の土を震わせ、風に乗って鉄と革の擦れる不快な音が運ばれてきた。
俺は防衛陣地として活用している巨大な岩の上に立ち、遠眼鏡を構える。
レンズの向こう側、街道を埋め尽くすように進んでくるのは、三百を超える武装した荒くれ者たちだ。
統一された軍装はない。錆びた鎖帷子を着た者、革鎧の者、巨大な戦斧を担いだ者。金でかき集められた傭兵団特有の、粗暴で殺伐とした空気が漂っている。
彼らは隊列を組むこともなく、ただ獲物を求める獣のように群れをなして歩いていた。略奪を心待ちにしているのか、下品な笑い声が遠くからでも聞こえてきそうだ。
数は多いが、統制は取れていない。ただの烏合の衆だ。金で雇われただけの集団に、命を懸ける理由はない。
その軍勢の中央に、不釣り合いなほど豪奢な馬車が進んでいる。
金箔で装飾された天蓋の下でふんぞり返っているのは、ゴードン男爵だ。
だが、その顔に以前のような傲慢な余裕はない。
脂ぎった額には汗が浮かび、目は血走っている。爪を噛みながら周囲の傭兵たちを怒鳴り散らす姿は、狂気に憑りつかれているようだった。
かつて俺がこの土地を買ったとき、奴は薄ら笑いを浮かべていた。成り上がりの傭兵が泥にまみれて失敗するのを、高みの見物で楽しむつもりだったのだろう。
だが、今は違う。自分の足元が崩れ落ちる音に怯え、なりふり構わず暴力を振るう哀れな男の顔だ。
王都へ送られた証拠が受理されれば、奴の地位も財産もすべて終わる。
その恐怖が、奴の理性を焼き尽くしていた。
「全軍、進め! あの目障りな農夫どもを一人残らず皆殺しにしろ! 私の土地から盗んだ富を、すべて取り返してやる!」
男爵の金切り声を合図に、傭兵たちが一斉に武器を振り上げ、土煙を上げて駆け出した。
自分が騙して売りつけた荒れ地が価値を生み、見下していた者たちが豊かに暮らしている。それが許せないのだろう。
力ずくでこの領地を蹂躙し、すべての証拠と目撃者を灰にする。それが奴の選んだ最後の手段だった。
圧倒的な物量を頼みに、ただ蹂躙することだけを目的とした行軍。
かつての俺なら、こんな無謀な防衛戦は引き受けなかっただろう。雇い主を見捨ててでも、さっさと逃げ出していたはずだ。
戦場で村が焼かれ、子どもたちが泣き叫ぶ姿を、俺は嫌というほど見てきた。
あの傭兵たちがこの領地に入り込めば、どうなるか。想像するだけで胃の奥が冷たくなる。
だが、今は違う。
俺の背後には、守るべき家族がいる。
◆ーーーー◆
俺は遠眼鏡を下ろし、背後を振り返った。
岩陰に設けられた後方陣地では、湯気が白く立ち上っている。麦と塩漬け肉を煮込んだ、素朴だが力強い匂いが風に乗って漂ってきた。
「腹が減っては戦はできんぞ! 焼きたてのパンと温かいスープを前線へ運べ!」
ドノバンのしゃがれた声が響き渡る。
日焼けした顔に深い皺を刻んだ老人は、大きな鍋をかき混ぜながら周囲に的確な指示を飛ばしていた。
「この土はわしらが汗水垂らして耕したものだ。あんな薄汚いブーツで踏み荒らされてたまるか!」
彼の周りでは、領民たちが手際よく立ち働いている。
移住してきたばかりの流民たちも、誰一人として逃げ出そうとはしなかった。
彼らもまた、戦火や飢えで故郷を追われた者たちだ。ようやく見つけた安住の地を、二度と奪わせはしないという執念が、その背中から伝わってくる。
彼らの手には、使い慣れた鍬やピッチフォークが握られている。
「お前さんたち、無理はするな。だが、ここはわしらの土地だ。一歩も引く気はないぞ」
ドノバンが力強く頷くと、領民たちも無言で応えた。
安全な後方の小屋では、子どもたちが布を裂いて包帯を作り、水筒に飲み水を詰めている。
長女のアリアが、小さな弟妹たちを落ち着かせるように優しく声をかけていた。
末っ子のミルが不安そうにアリアの服の裾を握りしめている。アリアはミルの頭を優しく撫でながら、作り笑いではない、力強い微笑みを向けていた。
「大丈夫よ。レオンが必ず守ってくれるわ。私たちは私たちの仕事をしましょう」
彼女はそう言いながらも、手元の布をきつく結び直す。
「それに、包帯の無駄遣いは許さないわよ。誰も怪我なんてしないでよね」
恐怖がないわけではないはずだ。
だが、彼らの目には、自分たちの手で作り上げたこの居場所を絶対に守り抜くという、確かな覚悟が宿っていた。
「親父、足の具合はどうだ?」
不意に声をかけられ、視線を下ろす。長男のカイトが、自警団の若者たちを率いて武器の最終点検を行っていた。
俺が拾ったときは、ただ怯えるだけの痩せこけた少年だった。それが今では、自警団をまとめる立派な若者に成長している。
「ああ。お前が編んでくれたサポーターのおかげで、古傷の痛みは全くない」
俺が足首を軽く回して見せると、カイトは満足そうに口角を上げた。
少し離れた場所では、次男のシオンが地面に広げた地図を睨みつけ、風向きを確認している。
「風速、風向ともに問題ない。特産品の搾りかすを使った催涙煙幕は、予定通り敵の先陣を完全に覆い尽くすはずだ」
シオンは羽ペンを走らせながら、冷静に状況を分析していた。数字と論理で戦場を支配する。俺にはない才能だ。
俺の胸の奥で、熱いものが込み上げてくる。
誰一人欠けることなく、全員で生き残る。
そのための準備は、すでに整っていた。
◆ーーーー◆
再び前方に視線を戻す。
敵の先陣が、街道の狭まった地点に差し掛かろうとしていた。
俺の隣には、手入れの行き届いた銀色の鎧を身に纏ったクロードが立っている。
「貴殿の民は、誰一人として絶望しておりませんな」
クロードが、後方の様子をちらりと見て言った。
「ああ。あいつらは強い」
俺は短く答えた。
「私は騎士として、真に守るべき民のために剣を振るう。それがたとえ、かつての主君を討つことになろうとも」
クロードは真っ直ぐに前を見据え、腰の剣に手をかけた。
私利私欲のために民を犠牲にする男爵の狂気。それに付き合う義理は、彼にはもうない。
「頼りにしているぞ、クロード」
俺は声を落として返し、自身の腰に提げた長剣の柄を握った。
敵の数は三百。こちらは戦える者をかき集めても数十人。
まともにぶつかれば一瞬で飲み込まれる。
だが、ここは俺たちが血の滲むような思いで開拓してきた土地だ。
どこに窪みがあり、どこに死角があるか、すべて把握している。
シオンが計算し尽くした罠の配置。特産品の搾りかすを利用した催涙煙幕。
そして何より、この巨大な岩の群れが作り出す天然の要塞。
大昔の砦の基礎だというこの岩の配置は、敵の進行ルートを限定し、数の暴力を無効化する完璧な防壁となる。
かつて戦場を渡り歩いた凄腕の傭兵としての冷徹な戦術眼が、頭の中を氷のように冷やしていく。
同時に、十七人の子どもたちの父親としての温かい感情が、全身の筋肉に力を漲らせていた。
深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。肺の奥まで冷たい空気が満ち、感覚が研ぎ澄まされていく。
昔は、ただ生き延びるため、金のために剣を振るっていた。
だが今は違う。この剣は、家族の未来を切り拓くためのものだ。
地響きが、明確な足音へと変わる。怒号と金属音が入り混じった、戦場特有の喧騒が押し寄せてくる。
「来るぞ」
俺は低く告げ、ゆっくりと剣を引き抜いた。
鈍い鋼の音が、静寂を切り裂く。
クロードの抜いた剣もまた、曇り一つなく磨き上げられていた。その輝きは、彼の迷いのない心そのものだ。
圧倒的な暴力の波が、すぐそこまで迫っている。
だが、俺の心に焦りはなかった。
家族の絆は、男爵の狂気と暴力に打ち勝つことができるのか。
その答えを出すための戦いが、今、始まろうとしていた。




