第14話
使者を見送った夜の静寂の中、俺はアッシュバレーの居住区から少し離れた高台に立っていた。
冷たい夜風が吹き抜ける。右腕の古傷が疼きそうな寒さだが、カイトが編んでくれた丈夫なサポーターがしっかりと熱を逃がさず、痛みを和らげてくれていた。
「使者は無事に王都へ向かったようだな」
背後から、静かな足音とともにクロードが近づいてきた。手入れの行き届いた鎧が、月明かりを鈍く反射している。
「ああ。だが、男爵がこれでおとなしく引き下がるとは思えない」
俺は短く応じ、眼下に広がる領地を見下ろした。
開墾を阻んでいた巨大な岩の群れ。かつて砦の基礎だったというその巨石群は、夜の闇の中で黒々とした影を落としている。
「ええ。男爵の執念深さを甘く見てはいけません。おそらく、王都への報告を妨害するだけでなく、この領地そのものの通信手段を絶とうとするはずです」
クロードの言葉に、俺は頷いた。
すでに、次男のシオンがその動きを予測していた。
『彼らの狙いは、僕たちの外部との連絡手段を完全に絶つことだ。伝書鳩の小屋か、あるいは見張り台を狙うはずだよ』
昼間、シオンは机上の地図にいくつもの線を書き込みながら、淡々と語っていた。
『この巨石群の配置は、軍事的に計算されている。侵入者が身を隠そうとすれば、必然的に死角となるルートを選ぶ。そこへ罠を張ればいい』
その予測通り、巨石群の影を縫うようにして、数人の黒い影が伝書鳩の小屋へと近づいていた。
彼らは音もなく移動し、熟練の工作員であることを窺わせる。
「来たな」
俺は低く呟き、腰の剣に手をかけた。
「シオン殿の計算通りですね。恐ろしいほどの慧眼だ」
クロードが感嘆の息を漏らす。
工作員たちは、完全に自分たちが優位に立っていると信じ込んでいるようだった。彼らは巨石群の死角を伝い、警戒を怠ることなく進んでいく。
だが、そのルートこそが、シオンが意図的に開けておいた誘導路だった。
先頭の男が、小屋の裏手にある茂みに足を踏み入れた瞬間。
カチリ、と微かな音が響いた。
「なっ……!」
男のくぐもった声と同時に、足元の土が跳ね上がった。
シオンが設計し、バルガスが仕掛けた連動式の罠だ。張り巡らされた丈夫な革紐が弾け、周囲の木々に仕掛けられていた滑車が勢いよく回る。
「罠だ! 退け!」
工作員の一人が鋭く叫んだが、遅かった。
彼らの退路を塞ぐように、頭上から無数の土嚢が落下し、巨石と巨石の間を完全に封鎖した。
「チッ、ただの農民の集落じゃなかったのか!」
混乱する工作員たち。そこへ、さらなる仕掛けが発動した。
シュゥゥゥゥ……!
茂みのあちこちに設置されていた素焼きの壺から、突如として濃密な煙が噴き出し始めた。
「なんだ、この煙は……ゲホッ、ゴホッ!」
「目が……痛ぇ! 息が……ッ!」
工作員たちが次々と膝をつき、喉をかきむしる。
風に乗って漂ってきたその匂いに、俺も思わず顔をしかめた。
「相変わらず、とんでもない匂いだな」
「ああ。だが、効果は絶大だろ」
いつの間にか近くの岩陰に潜んでいたバルガスが、革のエプロン越しに鼻を覆いながら姿を現した。
煙の正体は、特産品作りの副産物である刺激臭のする搾りかすだ。最初は廃棄に困るただのゴミだったが、バルガスがそれに手を加え、燃やすことで強力な催涙煙幕になることを発見したのだ。
「あんたの指示通り、風向きを計算して配置しておいた。これで奴らはまともに目も開けられねぇはずだ」
「助かる。ここからは俺たちの仕事だ」
俺は布で口と鼻を覆い、クロードに目配せをした。
「承知しました。証人として、生け捕りにします」
クロードも布を巻き、剣を抜かずに鞘のまま構えた。
俺たちは煙幕の中へと突入した。
視界は最悪だが、巨石群の地形はすでに頭に叩き込んである。
煙に巻かれ、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした工作員が、盲滅法に短剣を振り回していた。
「くそっ、どこだ!」
俺はその男の背後に回り込み、カイトのサポーターで保護された右腕で、男の首根っこを正確に打ち据えた。
「がッ……」
男は白目を剥いて崩れ落ちる。
古傷の痛みはない。全盛期の傭兵時代と変わらない、いや、守るべき家族がいる今の方が、動きに迷いがなかった。
「そこまでです。抵抗は無意味ですよ」
少し離れた場所では、クロードが二人の工作員の関節を鮮やかに極め、地面に押さえつけていた。騎士としての洗練された体術だ。
「ふざけるな……俺たちは、男爵様の……」
「喋らなくていい。後でたっぷり聞かせてもらう」
俺は残る一人に歩み寄り、その鳩尾に軽い一撃を入れて意識を刈り取った。
ものの数分で、侵入した工作員五人はすべて無傷で捕縛された。
◆ーーーー◆
煙が晴れた後、俺たちは捕らえた工作員たちを、居住区から離れた空き小屋に運び込んだ。
手足を太いロープで縛り上げ、冷水を浴びせて目を覚まさせる。
「さて。お前たちがここへ来た目的は分かっている。外部への連絡手段を絶つことだろう」
俺は腕を組み、冷たい視線で男たちを見下ろした。
「……殺せ。俺たちは何も喋らん」
リーダー格らしい男が、血走った目で俺を睨みつける。
その言葉に、クロードが静かに一歩前に出た。
「貴殿らは、ゴードン男爵の私兵ですね。私は元男爵軍の騎士、クロードです。貴殿らの顔に見覚えはないが、その装備の質……裏の仕事を請け負う者たちとお見受けする」
男の顔に、わずかな動揺が走った。
「裏切り者の騎士か。男爵様はお前を八つ裂きにすると仰っていたぞ」
「それは光栄ですね。ですが、今の男爵にそんな余裕があるとは思えません。王都からの監査が入り、資金繰りも破綻しているはず。貴殿らに払う報酬も、いずれ滞るでしょう」
クロードの理路整然とした言葉に、男たちは押し黙った。
俺はさらに畳み掛ける。
「俺たちは、お前たちを殺すつもりはない。王都の裁定機関に引き渡し、男爵の悪事を証言させる。そうすれば、お前たちの命までは取られないだろう」
「……甘いな、傭兵崩れが」
男は口の中に溜まった血を吐き出し、不気味な笑みを浮かべた。
「俺たちがここで捕まろうが、もう手遅れだ。男爵様は、すでに次の手を打っておられる」
「次の手、だと?」
俺の問いに、男は狂気を孕んだ目で答えた。
「ああ。男爵様は、残された全財産を投じて、大規模な傭兵団を雇い入れた。その数、およそ三百。連中は今頃、この領地に向けて進軍を開始しているはずだ」
三百の傭兵団。
その数字に、俺の胃の奥が冷たくなるのを感じた。
「男爵様は仰っていたよ。『あの忌々しい荒れ地ごと、すべてを焼き払え』とな。お前たちの家族も、流民どもも、一人残らず灰になるんだよ!」
男の嘲笑が、薄暗い小屋の中に響き渡る。
クロードの顔色も青ざめていた。
「三百……。男爵は、完全に正気を失っている。領地を奪い返すどころか、ただの破壊を望んでいるというのか」
「自分の思い通りにならないものは、壊してしまえばいい。あの男なら、やりかねない」
俺は拳を強く握りしめた。
王都の裁定機関に証拠が届き、法的な裁きが下るまでには、まだ時間がかかる。
それまでに、三百の傭兵団がこのアッシュバレーに押し寄せてくる。
「レオン殿。どうしますか。我々の戦力は、自警団を含めても数十人。まともにぶつかれば、ひとたまりもありません」
クロードの声には、隠しきれない焦りが滲んでいた。
だが、俺の心は不思議と落ち着いていた。
「逃げるという選択肢はない」
俺は静かに、だがはっきりと告げた。
「ここは、俺たち家族の家だ。子どもたちが笑って飯を食える、唯一の居場所だ。誰にも奪わせはしない」
俺の言葉に、クロードはハッとしたように顔を上げ、やがて深く頷いた。
「……ええ。私も、この地の平和を守るために剣を振るうと誓いました。最後までお供します」
俺は力強く頷き、小屋の扉を開け放った。
かつてない規模の脅威が、すぐそこまで迫っている。
だが、俺たちにはまだ手札がある。この巨石群の地形、子どもたちの才能、そして領民たちの結束。
迫り来る三百の傭兵団に対し、どう立ち向かうか。
俺の頭の中では、すでに迎撃のための戦術が組み上がり始めていた。




