第13話
闇を切り裂くように、俺はビクともしない巨大な岩の陰から踏み出した。
先頭を歩いていた黒装束の男が、驚愕に目を見開く。その首筋に剣の峰を打ち込み、音を立てずに気絶させた。崩れ落ちる体を片手で支え、地面に静かに横たえる。
後続の二人が異変に気づき、短剣を抜くより早く、足元の落ち葉に仕掛けられていた鳴子が甲高く鳴り響いた。
同時に、周囲の木々に仕掛けられていた罠が作動する。特産品の搾りかすを利用した強烈な催涙煙幕が、白い煙となって勢いよく噴き出した。
「ぐあっ、目が……!」
工作員たちが激しく咳き込み、目を押さえてうずくまる。視界を奪われ、完全に方向感覚を失っていた。
舌打ちとともに後退しようとした彼らの背後を、カイトたち自警団が塞いでいた。
「動くな。それ以上一歩でも動けば、容赦はしない」
カイトは工作員の喉元に槍を突きつけた。鋭利な穂先が月明かりを反射して光る。
シオンが計算し尽くした夜間の死角。そこを逆手に取った迎撃網は完璧に機能した。侵入者たちは一人の犠牲者も出すことなく、あっけなく捕縛された。
「親父、怪我はない?」
煙が晴れた後、駆け寄ってきたカイトに俺は頷きを返す。
「ああ。お前たちが退路を塞いでくれたおかげだ。よくやった」
カイトは少し照れくさそうに鼻の頭を擦った。
迎撃は成功した。確かな手応えが手のひらに残っている。だが、男爵の執拗な攻撃がこれで終わるとは思えなかった。
夜が明け、アッシュバレーに朝の光が差し込む。冷たい空気が頬を刺す中、領民たちは足早に作業へと向かっていく。
工作員を捕らえたとはいえ、領民たちの間には不安の影が色濃く落ちていた。広場に集まる人々の顔は暗く、ひそひそと交わされる会話には恐怖が混じっている。
「昨夜、また侵入者がいたらしいぞ」
「男爵軍が本格的に攻めてくるのも、時間の問題じゃないか……」
そんな声が、風に乗って俺の耳にも届いていた。
そんな不穏な空気を吹き飛ばすように、新設された学校の教室からは元気な声が響いていた。
「皆さん、顔を上げてください!」
教壇に立つエレナの声は、いつも以上に張りがあり、明るかった。丸眼鏡の奥の瞳は熱を帯び、黒板に次々と数字や図形を書き込んでいく。
子供たちは最初こそ落ち着かない様子で窓の外を気にしていたが、エレナの気迫に押されるように、次第にノートに向かう顔つきが真剣になっていった。
「外のことは大人たちに任せておけば大丈夫です。皆さんは今、ここで学ぶべきことに集中しなさい」
エレナは一人ひとりの顔を見渡しながら、力強く語りかける。
「知識は、いつか必ず皆さん自身を助ける力になります。さあ、次の計算問題を解いてみましょう」
その言葉に、子供たちの背筋がピンと伸びる。
窓の外からその様子を眺めていたアリアが、ほっと息をつく。
「エレナ先生のおかげで、子供たちは不安を忘れているみたい」
「ああ。彼女の存在が、今の領地を支えてくれている」
俺は頷き、アリアの肩を軽く叩いた。彼女もまた、家計のやりくりや物資の管理で無理を重ねている。
「あんたも、少しは休め。倒れられたら困る」
「大丈夫よ。これくらい私にもできるわ」
アリアは気丈に笑うが、その目元にはわずかに疲労が滲んでいた。
「無茶を言うな。昨夜も遅くまで帳簿を確認していただろう」
「それは……でも、私がしっかり管理しないと、みんなが困るもの」
アリアはうつむき加減に言う。その小さな肩が、見えない重圧に耐えているのが分かった。
「お前は十分に役に立っている。家族なんだから、もっと俺たちを頼れ」
俺の言葉に、アリアは少しだけ目を潤ませて頷いた。彼女の細い指先が、エプロンの裾をぎゅっと握りしめている。
昼下がり。広場では、ミルがセリアの手を引いて走り回っていた。
「セリアお姉ちゃん、こっちこっち! 新しいお花が咲いてるの!」
「ふふ、待って、ミルちゃん。そんなに急いだら転ぶわよ」
セリアは微笑みながら、ミルの歩幅に合わせてゆっくりと歩いている。その柔らかな表情は、普通の町娘と何ら変わりない。
その光景を遠巻きに見守っていた俺とアリアの元へ、セリアが歩み寄ってきた。
ミルが他の子供たちの輪へ駆けていくのを見送ると、彼女は表情を引き締めた。
「レオン、アリア。少し、お話ししてもよろしいでしょうか」
普段の穏やかな口調とは違う、凛とした響きがあった。俺たちは頷き、人目のつかない執務室へと彼女を招き入れた。
重厚な木の扉を閉めると、部屋の中は静寂に包まれた。
「これまで身分を隠していたこと、お詫びします」
セリアは深く頭を下げた。
「私は王都の裁定機関から派遣された特使です。ゴードン男爵からの報告に不審な点があり、辺境の真実を確かめるために参りました」
アリアが息を呑む。
「特使……じゃあ、あなたが王都の」
「はい。王都では、男爵が辺境の開拓を推し進めているという報告が上がっていました。しかし、その裏で多額の資金が不自然に動いている。裁定機関はそれを疑い、私を密かに派遣したのです」
セリアは顔を上げ、俺を真っ直ぐに見つめた。
「男爵は、このアッシュバレーが反乱を企てていると虚偽の報告を上げていました。ですが、私がこの目で見たものは全く違います」
彼女の瞳には、強い義憤の色が浮かんでいた。
「ここは、子供たちが笑顔で暮らし、人々が助け合う豊かな土地です。反乱の兆しなど、どこにもありません」
その言葉に、胸の奥のつかえが少しだけ下りるのを感じた。
傭兵時代に多くの命を奪ってきた俺が、こんな温かい場所を作っていいのか。そんな迷いを、彼女の言葉が肯定してくれた気がした。
「男爵は、この土地の富を独占するために、あなた方を排除しようとしている。それは明白です」
セリアは拳を強く握りしめた。
「私は、この美しい領地が理不尽な暴力によって踏みにじられるのを黙って見過ごすことはできません」
「男爵の嘘を完全に覆すため、王都へ真実の報告書を送ります」
セリアは力強く宣言した。
「私の家の名において、必ずこの領地を守る手助けをします」
「恩に着る」
俺は短く答えた。
「本当に、ありがとうございます」
アリアも深々と頭を下げる。セリアの決断は、俺たちにとって大きな希望の光だった。
「すぐに筆を執ります。王都の裁定機関に直接届くよう、特別な封印を施して」
セリアはそう言うと、用意してあった上質な羊皮紙に向かい、すらすらとペンを走らせ始めた。インクの匂いが微かに漂う。
その横顔には、貴族としての誇りと、真実を明らかにするという強い意志が宿っていた。迷いのないペンの動きが、彼女の覚悟を物語っている。
俺は窓の外に目を向けた。
広場では、子供たちが無邪気に笑い合っている。
この笑顔を守るためなら、俺はどんな敵とも戦う。かつて戦場で見てきたような飢餓や暴力に、二度とこいつらを巻き込ませはしない。
その決意を新たにしながら、俺はセリアのペンが動く音を静かに聞いていた。
夕刻。空が茜色に染まる頃。
セリアが書き上げた報告書は、厳重に蝋で封をされ、信頼できる使者の手に託された。クロードの元部下で、馬の扱いに長けた屈強な男だ。
「頼んだぞ。王都まで、決して立ち止まるな」
俺の言葉に、使者は力強く頷き、黒馬に跨った。手綱を引き、一気に駆け出していく。
蹄の音が遠ざかっていくのを見送りながら、確かな前進の手応えを感じていた。
これで、男爵の企みは王都の知るところとなる。法と知略による反撃の準備は整った。
だが、完全な解決にはまだ遠い。
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アッシュバレーの外縁部。鬱蒼と茂る森の奥深くで、数人の影が蠢いていた。木々の隙間から漏れるわずかな月明かりが、彼らの冷たい刃を鈍く照らし出す。
「特使の使者が出発したようだ」
低い声が闇に溶ける。感情の一切こもっていない、機械のような響きだった。
「男爵様からの命令は絶対だ。報告書を奪い、使者を始末しろ」
彼らは昨夜捕らえられた工作員たちとは別の、本命の暗殺部隊だった。気配を完全に殺し、闇と同化している。
音もなく木々を抜け、影たちは使者の後を追って駆け出す。その動きは獣のように素早く、無駄がない。
使者は一人。護衛はいない。王都への道のりは長く、険しい。
果たして、真実を記した手紙は無事に届けられるのか。冷たい夜風が、再び辺境の地に吹き荒れようとしていた。




