第11話
夜風が窓を揺らす中、セリアは金属の筒を胸に抱き、静かに目を閉じた。
彼女が書き記した報告書が王都の誰の手に渡るのか、その結果が出るよりも早く、事態は動いた。
数日後の朝。
アッシュバレーの入り口に、土煙を上げて一台の馬車が到着した。辺境には不釣り合いな、豪奢な装飾が施された車体だ。
馬車から降りてきたのは、上等な絹の服を着た三人の男たちだった。彼らは鼻を覆いながら、周囲の農地や作業小屋を値踏みするように見回している。
「ここがアッシュバレーか。聞いていた通り、薄汚い孤児の寄せ集めだな」
先頭に立つ、神経質そうな細身の男が吐き捨てるように言った。
俺は作業の手を止め、彼らの前に進み出た。背後では、カイトたち自警団の面々が警戒した様子で武器に手をかけている。
「何の用だ」
俺が短く問うと、細身の男は懐から羊皮紙を取り出し、見せつけるように広げた。
「王都からの査察団だ。ゴードン男爵からの報告によれば、この領地は不正な資金で運営されている疑いがある。よって、直ちに領地を差し押さえ、お前たちを尋問する」
男の言葉に、子どもたちの間に動揺が走る。
男爵の息がかかった連中だということは明白だった。王都の正式な手続きを踏んでいるように見せかけ、難癖をつけてこの土地を奪い返すつもりなのだろう。
「差し押さえだと? 冗談じゃない」
俺は低い声で返し、彼らを広場の長机へと案内した。
武力で追い返すのは簡単だが、それでは相手に反逆の口実を与えるだけだ。ここは向こうの土俵である法と理屈で、完全に叩き潰す必要がある。
「不正な資金なんて、どこにもありません」
広場にやってきたアリアが、分厚い帳簿を抱えて男たちの前に立った。
彼女は普段の作業着姿だが、その背筋はピンと伸び、貴族の使いを前にしても一切物怖じしていない。
「これが開拓を始めてからの、すべての収支記録です。確認してください」
ドン、と重い音を立てて帳簿が机に置かれる。
査察団の男は鼻で笑いながら、乱暴にページをめくり始めた。孤児がつけた帳簿など、どうせ穴だらけだろうと高をくくっているのが見え透いていた。
だが、ページをめくるごとに、男の顔から余裕が消えていく。
「な、なんだこれは……」
一シリングの無駄もない、完璧な家計管理。種籾の購入から特産品の売上、資材の調達に至るまで、すべての金の流れが整然と記録されている。
アリアが夜遅くまでランプの灯りの下で、何度も計算をやり直して作り上げた結晶だ。付け入る隙などあるはずがない。
「お役人さん方、俺からも保証させてもらうぜ」
そこに、人懐っこい笑顔を浮かべたザックが歩み寄ってきた。
「ここの取引はすべて、俺たち商人ギルドの正規ルートを通してる。裏金なんて入り込む余地はないんだよ」
「し、しかし、これほどの利益がこんな短期間で出るはずがない! 何か違法な薬でも密造しているに違いない!」
焦った男が声を荒らげた。
ザックは肩をすくめ、懐から小さなガラス瓶を取り出した。
「お客さん、あんた、本物を見る目がないのかい?」
ザックが瓶の蓋を開けると、周囲に芳醇で甘い香りが広がった。バルガスが工房にこもり、何度も試行錯誤を重ねて精製した最高級の香油だ。
「王都の貴族様でも、これほどの品はそうそうお目にかかれない。この領地は、自分たちの手で莫大な富を生み出してるんだよ。違法な薬なんかより、よっぽど割のいい商売さ」
査察団の男たちは、香油の品質に圧倒され、言葉に詰まった。
彼らは男爵から、ここは貧相な荒れ地で、傭兵崩れが力任せに支配していると吹き込まれていたのだろう。だが目の前にあるのは、高度な特産品を生み出す豊かな領地だ。
「帳簿など、いくらでも偽造できる! そもそも、こんな辺境でまともな運営ができるはずがないんだ!」
細身の男が、ついに理屈を捨てて怒鳴り散らした。
「なら、これで証明しようか」
静かな声が響き、シオンが人混みを掻き分けて前に出た。
彼の手には、手のひらサイズの奇妙な金属盤が握られている。俺がこの土地を買った時に男爵から渡された、領地運営を可視化する魔道具だ。
「君たちでも、これの読み方くらいは分かるだろ?」
シオンは皮肉交じりに言い放ち、魔道具を机の中央に置いた。
金属盤が淡い光を放ち、空中にいくつかの数字が浮かび上がる。
人口、資金、食料生産量、幸福度。
開拓を始めた当初は、俺と子どもたちを合わせた十八人という寂しい数字だった。だが今、空中に浮かび上がっている数値は、辺境の荒れ地とは到底思えないほど跳ね上がっている。
「この魔道具は嘘をつかない。王都が認定した正式なものだからね。これでもまだ、不正だと言い張るつもりかい?」
シオンは少し長めの前髪の奥から、冷ややかな視線を査察団に向けた。
男たちは空中に浮かぶ圧倒的な数値を前に、完全に沈黙した。
魔道具の数値は、領地の合法性と豊かさを証明する何よりの証拠だ。これに難癖をつけることは、王都の魔道具の信頼性を否定することに繋がる。
「……っ、覚えていろ!」
細身の男は顔を真っ赤にして吐き捨てると、逃げるように馬車へと向かった。
他の役人たちも慌てて後を追い、馬車は来た時よりもずっと慌ただしい様子で土煙を上げて去っていった。
広場に、子どもたちの歓声が響き渡る。
「やったわね、アリア!」
「ああ。みんなが頑張ってくれたおかげよ」
アリアは安堵の息をつき、帳簿を大切そうに胸に抱いた。シオンも満足げに魔道具を回収し、ザックは香油の瓶をしまいながら笑っている。
暴力に頼らず、自分たちの積み上げてきた実績と知恵で、敵の不当な要求を退けた。
それは、この領地が確かな力を持っているという何よりの証明だった。
俺は遠ざかる馬車を見送りながら、小さく息を吐いた。
合法的な手段での差し押さえは防いだ。男爵が送り込んできた刺客を、手も足も出ない状態にして追い返してやった。
だが、これで終わるはずがない。
俺の胸の奥で、長年の傭兵生活で培われた勘が警鐘を鳴らしていた。
ゴードン男爵は強欲で、プライドが高い男だ。自分の思い通りにならないと分かれば、手段を選ばなくなる。
法や理屈が通じないと悟った今、奴は追い詰められた。
合法的な手段に失敗した男爵が次に打ってくる手は、一つしかない。
非合法な実力行使。
つまり、武力による侵攻だ。
俺は自分の両手を見つめた。かつて多くの命を奪ってきた、血に染まった手。
子どもたちに誇れるような立派な人間ではない。だが、この手で家族を守れるのなら、俺は何度でも修羅になる。
「親父、どうしたんだ?」
カイトが心配そうに声をかけてきた。
「いや、何でもない」
俺はカイトの肩を軽く叩き、腰の剣帯を締め直した。
この平和な時間は、長くは続かないかもしれない。
追い詰められた男爵は、次にどんな卑劣な手を打ってくるのか。
戦いの気配が、確実にこのアッシュバレーに近づいていた。
だが、俺たちはもう、ただ怯えて逃げ惑うだけの存在ではない。
迎え撃つ準備を始めなければならない。
俺は静かに決意を固め、広場の中心で笑い合う家族たちを見守った。




