第10話
特使が到着するまでの時間は限られている。王都の法務高官が動いたとなれば、正面から追い返すわけにはいかない。
だが、俺たちにはすでに打てる手があった。
「法には法で、権力にはそれ以上の知略で対抗するまでだ」
俺は静かに、だが確かな決意を込めて言った。
男爵の裏の権力を打ち砕くための、次なる一手を考えなければならない。
クロードとの密談を終えた俺は、冷たい冬の風が吹く領地を見回っていた。
王都の貴族社会のルールで戦うには、ザックに託すための決定的な切り札が必要になる。
考えを巡らせながら歩いていると、開墾された農地の方から賑やかな声が聞こえてきた。
「おじいちゃん! わたしのおともだち、つれてきたよ!」
末っ子のミルが、見慣れない少女の手を引いて走ってくる。
先日、広場でミルたちと遊んでいたセリアという少女だ。
彼女は少し戸惑ったように周囲を見回しながら、ミルの歩調に合わせて小走りでついてきていた。
「おう、ミルか。そっちの嬢ちゃんは……見ない顔だな」
土にまみれた鍬を置き、ドノバンが額の汗を拭う。
彼の背後には、冬の寒さに耐えながら青々と葉を広げる根菜類の畑が広がっていた。
ミルは得意げに胸を張り、セリアに向かって畑を指差す。
「みてみて! ここ、ぜーんぶわたしたちの畑なんだよ! おじいちゃんが魔法みたいに、おいしいお野菜を育ててくれるの!」
セリアは畑に近づき、しゃがみ込んで土の匂いを嗅いだ。
その瞳が、驚きに見開かれる。
「これが、あの荒れた土地で育ったというのですか……?」
セリアの呟きは、ただの迷子や流民の子供が発するものではなかった。
言葉の端々に、教養と品格が滲み出ている。
ドノバンは節くれだった太い腕を組み、鼻を鳴らした。
「ただ種を蒔いただけじゃねえ。わしと領主様、それにみんなで土を入れ替えて、水路を引いて、毎日泥だらけになって世話をしたんだ。どうだ嬢ちゃん、立派なもんだろう」
「はい……信じられません。これほど豊かな土壌、王都の近郊農地でもそうは見られません」
セリアは感嘆の溜息を漏らした。
彼女の視線の先では、領民たちが笑顔で挨拶を交わしながら農作業に励んでいる。
誰も怯えていないし、飢えてもいない。
セリアは、自分が聞かされていた「反逆者たちの無法地帯」という言葉と、目の前の温かな光景とのギャップに、激しく戸惑っているようだった。
俺は少し離れた場所からその様子を見届け、静かに踵を返した。
今は、俺のやるべきことを進めなければならない。
◆ーーーー◆
向かった先は、領地の外れにある工房だ。
扉を開けると、植物の油を煮詰める独特の匂いが鼻を突いた。
「旦那、来たか」
作業台に向かっていたバルガスが、革のエプロンを外しなら振り返る。
その目の下には濃い隈ができていたが、表情はどこか晴れやかだった。
「頼んでいたものは、どうだ」
「ああ、できたぜ。こいつを見てくれ」
バルガスが作業台から手に取ったのは、手のひらサイズのガラス小瓶だった。
中には、透き通るような黄金色の液体が満たされている。
特産品である植物油を、さらに高度な技術で精製したものだ。
「不純物を極限まで取り除いた。王都の貴族どもが好む、肌に塗る高級香油のベースにもなる品質だ。これなら、あの強欲な商人どもも喉から手が出るほど欲しがるはずだ」
俺は小瓶を受け取り、光にかざした。
濁りのない美しい黄金色が、冬の陽光を反射して輝いている。
「見事だ。これほどの品、よく短期間で仕上げてくれた」
「俺は俺の仕事をしただけだ。あんたが俺の腕を信じて、余計な詮索をせずに任せてくれたからな」
バルガスは無精髭を撫でながら、ぶっきらぼうに言った。
過去に人に裏切られたトラウマを持つ彼が、ここまで俺たちに協力してくれる。
その事実が、何よりも心強かった。
「助かる。これでザックの交渉がさらに有利になる」
王都の商人ギルドを通じて、男爵の不正を暴くための裏工作。
そのための強力な取引材料として、この最高級の香油は絶大な威力を発揮するはずだ。
「あんたは、あんたの仕事でここを守ってくれ。俺たちは、俺たちにできることであんたを支える」
バルガスの言葉に、俺は深く頷いた。
◆ーーーー◆
夕刻。
広場には大きな鍋が用意され、温かいシチューの匂いが漂っていた。
一日の作業を終えた家族や領民たちが集まり、賑やかな食事の時間が始まる。
俺は、ミルと一緒に木箱に座っているセリアの元へ歩み寄った。
「口に合うといいんだが」
俺が木の器に入ったシチューを差し出すと、セリアは弾かれたように立ち上がり、完璧な礼の姿勢をとった。
「お招きいただき、感謝いたします。領主様」
その所作、視線の動かし方。
ただの子供ではない。
傭兵として数え切れないほどの人間を見てきた俺の直感が、彼女が何らかの特殊な訓練を受けた者、あるいは高貴な身分の者だと告げていた。
だが、俺は深く追及しないことを選んだ。
「ここでは肩書きは必要ない。ミルの友達なら、腹いっぱい食っていけ」
俺が器を押し付けるように渡すと、セリアは一瞬目を見開き、やがて小さく頷いてそれを受け取った。
「ありがとうございます……」
セリアは木のスプーンでシチューを掬い、そっと口に運ぶ。
その瞬間、彼女の張り詰めていた表情が、ふっと柔らかく解けた。
「おいしいでしょ! アリアお姉ちゃんが作ったんだよ!」
ミルが無邪気に笑いかけると、セリアは涙ぐみそうな瞳で何度も頷いた。
「ええ……とても、温かいです」
周囲では、子どもたちが笑い合い、大人たちが今日の成果を語り合っている。
セリアはその光景を、まるで信じられない奇跡でも見るかのように見つめていた。
彼女の瞳に宿っていた警戒心は、この温かな食事の席で完全に溶け去ったようだった。
◆ーーーー◆
夜が更け、領地が静寂に包まれる頃。
客室としてあてがわれた小屋の一室で、セリアは小さな羊皮紙に向かっていた。
揺れるランプの灯りの中、羽ペンを走らせる微かな音が響く。
『報告書。アッシュバレー領の現状について。ゴードン男爵の訴えは虚偽である可能性が極めて高い。領民は平穏に暮らし、領主は……』
彼女はペンを止め、窓の外を見上げた。
遠くで、夜番をするカイトたちの足音が聞こえる。
彼らは誰かに強制されているわけではなく、自分たちの居場所を守るために自ら動いているのだ。
『領主レオンは、反逆を企てるような残虐な人物ではありません。むしろ、この地は驚くべき速度で発展を遂げており、彼と領民たちの間には強い信頼関係が築かれています。』
セリアは一気に書き上げると、羊皮紙を細く丸め、小さな金属の筒に収めた。
彼女の正体は、王都から密かに派遣された特使の先遣隊なのか、それとも別の組織の密偵なのか。
確かなのは、彼女がこの領地の真実を、誰かに伝えようとしていることだけだ。
彼女が書き記したその報告書は、果たして王都の誰の手に渡るのか。
夜風が窓を揺らす中、セリアは金属の筒を胸に抱き、静かに目を閉じた。




