第3章 ラッシュガード②
それでも、何とか泡が消えると、門亜は風呂場を出て自分の部屋に戻った。
そして、自由帳を取り出すと、今日話すことを箇条書きにして書き出した。
・「働く人」で夏の長袖と長ズボンを買って欲しい
・ラッシュガードを買って欲しい(プールはいれるように頑張る)
と、ここまで書くと門亜は深呼吸をした。そして
・音環をうちに誘っていいかを聞く
そこまで書くと、心臓がドキンと大きな音を立てた。そして頬が急に熱くなった。
友だち。門亜の耳に、もう帰ってしまった音環の声が聞こえた。……友だちだろ?
門亜は立ち上がるとベッドに身を投げて、布団の冷たいところを探した。そして頬を当てて冷やし始めた。枕を抱きかかえてベッドの上を何度も何度も転がった。
友だち。なんてくすぐったいワクワクする言葉なんだ!
2階の自分の部屋で「友だち」の言葉を思い出してはベッドの上でゴロゴロとしていると、玄関があいて「ただいま」と言う声が小さく聞こえた。
……帰ってきた。いつもなら、これから夕飯の支度。話をするなら夕食の後だな。
門亜はランドセルを開けると翌日の準備をした。――ラッシュガード、みんなも着ればいいのにな。そうしたら、音環が困らないのに。
味噌汁の香りが上がってきた。そして、何かを炒める音がした。
……もうそろそろ夕飯だな。門亜は部屋を出ると、階段を下りて行った。
「ちょうど呼ぼうと思っていたのよ。お茶碗を並べてちょうだい」
母親にそう言われると、門亜は黙って茶わんを並べた。
多分、汁椀もだ。今日だけは大人しく従っておこう。それでも。門亜は自分の食器を母親が座る席の前から少しだけずらした。……息が詰まる。
餃子が焼けるいい匂いがした。皿に取り分けられたので、門亜はそれもテーブルに並べた。
ご飯をよそって席に着くと、母親は味噌汁を持ってテーブルにやってきた。そして、ほんの少しずれたところに座る門亜をちらりと見たが、特に何も言わずに席に着いた。
「いただきます」
門亜は黙って手を合わせると、ご飯茶碗を持った。ふわり、と陽の光のような香りがした。
おにぎりにして食べたいな。これ。部屋でテレビを見ながら食べたらどれだけ最高だろう。それが出来るなら、おかずなしでもいいな。
あ、でも今日はがまん、がまん。
箸が食器に当たる音だけが続いた。テレビはついていたが、門亜の耳には届かなかった。
まるで、機械が食べているようだ、と門亜は思った。
「今日は学校どうだった?」
おかずが半分減ったところで、母親が聞いてきた。どう?と聞かれても……。
「今日は暑かったでしょ。プールの見学、辛くなかった?」
門亜は黙っていると、母親はそのまま続けて聞いてきた。
音環と一緒にやったから楽しかった、と言いたかったがやめた。通信教育のドリルを自習時間にやっているのも、音環のドリルを書き写したのも、内緒だ。
……とりあえず、食べてしまおう。お願いはそれからだ。食べている途中に、気まずくなると、そこでご飯は終了にしたくなる。後でお腹が空くなんてことはしたくない。
門亜は黙々と食べ続けた。……こういう時に限って、おかずが多いなぁ。
「そう言えば、もうそろそろ学校からお便りが来ると思うんだけど、まだ来ないかしら」
質問は続いた。門亜はイライラしてきた。テストもプリントもお便りも出してるって!そう言いそうになるのをぐっとこらえた。
……やっとお皿が空になったぞ。門亜は味噌汁を飲んだ。体のどこかで引っかかっていたような感覚が消えて行った。少しだけ、ご飯が残っている……あと少し。
おひたしに少しだけしょうゆを注すと、ご飯に巻いて口に運んだ。強めの塩気が心地よかった。
「……ごちそうさまでした」
門亜は手を合わせた。
さあ、言うぞ。門亜はポケットに手を入れて、忍ばせておいたメモを軽く握った。
「あの……お願いがあるんだけど」
門亜は、まだ食事を続けている母親の隣に立った。
「なあに?」
「あの……夏物の長袖を買って欲しい。『働く人』で売っているんだって」
そう、わかったわ、と返事が返ってきた。門亜はその返事を聞いて拍子抜けした。
「あと……ラッシュガード、と言うのがあるんだけど、それも欲しい」
「ラッシュガード?」
母親は食事の手を止めた。そして、ポケットからスマホを取り出すと、検索を始めた。
「ラッシュガード……水着のことかしら」
そう言うと、門亜にスマホの画像を見せた。門亜の目の前には、音環が着ていた物に似た画像が出ていた。
「そう。これ」
門亜はうなずいた。
「スイミングに行きたいの?」
母親の質問に門亜は困惑した。そうじゃないんだけどな……。
「学校の……プール」
かろうじて、言葉を繋いだ。
門亜の母親は何か考えているようだった。
「買うのはいいけど……学校指定じゃないから、先生に何か言われちゃうかもしれないわね。とりあえず注文はするわ。
でも持っていくのは待ってちょうだい。先生に話をしてからね」
とりあえず、買ってもらえる!でも、何だか気持ちが引っかかる。なんでだろう。……まあ、いいか。これからが本題。
「音環……友だちの音環、家に呼んでいい?」
門亜はじっと母親の顔を見た。そう言えば、母さんの顔を見るのは久しぶりかもしれない。こんな顔をしてたっけ?
「音環……くん、って東京から来た転校生の子?」
母親は尋ねた。学校に来ないのに……よく知ってるなぁ。門亜はうなずいた。
「この前、先生に口答えしたって聞いたけど……大丈夫?あなた、言いなりになっていたりしない?」
えっ!先生に口答えしたのを知っていることにびっくりしたけど……母さんは音環の何を知っているの?何も知らないよね?
「母さんは音環の何を知っているの?ボクのことを悪く言わないし、一緒に勉強したりしてるよ!」
まだ、音環のことを知ってから一日目だけど……でも、正直なやつだと思う。それに、夏用の長袖を教えてくれたのは音環だ。
ボクが知らないいろんなこと、笑いもせずに教えてくれる。
門亜は言葉がうまく出てこなくてもどかしい気持ちだった。勝手にラベルを貼らないで!
母親は、驚いて目を見開いた。門亜が強い口調で言ったことに驚いた様子だった。ふぅ、と軽く息を吐くと
「誰もいないときに家に上がられるのは好きじゃないから、お母さんがいるときにして」
と言った。
今回は少し長めになりました。
章全体が長めなので、あと2回同じくらいになるかと思います。
ゆっくりお付き合いいただければ嬉しいです。
補足:
門亜の心はゆっくりと開いていきました。
音環と関わることで、少しずつ“心のリハビリ”が始まっています。
ちょっとずつ、複雑な心の動きが出来てくると思います。
この章は、その最初の一歩でした。




