第9章 別れ④
……顔を洗っておかないと。門亜はふらり、と立ち上がった。
顔を洗い終えたころ、ちょうど門亜の母親が帰ってきた。母親は門亜の泣きはらしてパンパンになった顔を見たが、あえて触れずにいた。
「少しは良くなった?よく寝れてる?」
いつものように母親は聞いてきた。門亜は母親の表情がいつもと違うような気がした。
――テレビの、介護とかのCMに出てくる人みたいだ……。看護師だからそうなのだろうけど。……ああ、今、仕事の顔をしているんだ。きっと僕の顔はひどいんだろうな。
「カブの醤油でつけたのが食べたい」
門亜はとつっ、と言った。その声に母親は少しだけ驚いたような顔をした。
「カブを醤油で漬けたもの?皮をむいて切ったものに醤油をつければいいのかしら。しばらく漬けるの?」
母親からの質問に、門亜は首をかしげてうーん、と考えた。カブ、しっとりとしていたけどそんなに茶色くなかったな……。あ。
「浅漬け、って言っていた。そんなに茶色くはなかった」
そう答えると、母親は少し嬉しそうな顔をして
「じゃ、ちょっとカブを買ってくるわね。お夕飯ちょっと遅くなってしまうけど……」
と言って財布を持つと、玄関から出て行った。
門亜は、階段を上るのも面倒になったので、階段の脇の和室でゴロン、とした。
うとうと……としかかったころ玄関が開く音がして、続いて靴の音がした。せわしなく何かの音がするのが、門亜には心地よく感じられた。
夕食の後、門亜は自分の部屋に戻ると、そっとカーテンを開けて外を見た。
……まだ月は出ていなかった。代わりに、街の灯りで光を奪われた星がポツリ、ポツリと弱弱しく輝いているのが見えた。
あんなに寝たのに……眠いな……。
門亜はテレビをつけようとした。リモコンに手を伸ばしたが、その手を止めた。
もう少し、星を眺めていよう……。
チチチチ……と鳴くヒグラシの音が門亜の耳に鮮明に聞こえて来た。そして、それに合わせるかのように。
近くの通りを走る車の音が聞こえて来た。
時折、ぷっ、とホーンを鳴らす音が耳に届いた。
夜が更けて……朝が来て……昼が来て……また夜が来て……門亜にはそれが無限ループのように思えた。何かは変わり、それでも変わらずループして朝が来る。
いつか、カイ兄ちゃんもボクもこの街の人たちも……どこかに行ってしまうんだろう。
ふぅ。ため息を一つ着くと、門亜はベッドの上で寝ころんだ。そして、いつの間にか眠りについた。
――門亜が目を覚ましたのは、翌日も大分日が昇ってからだった。時計を見たら、11時に近かった。
喉が渇いた、と門亜は階段を降りて行った。すると、階段の脇の和室から、母親と男の人の声がした。
ありがとうございます……カイも喜んでいると思います……その声を耳にしたとき、門亜は何を喜んでいるのか、不思議に思った。そして、そっと階段に座ると、隙間から和室の中を覗いた。
開いたふすまからは、ネクタイを締めた、ワイシャツ姿の男の人が正座をしているのが見えた。この声は……カイ兄ちゃんのお父さんだ。
「私の育て方は間違っていたのだと思います」
間違い、その言葉に門亜の血が一瞬騒いだような気がした。まるで、カイ兄ちゃんそのものが間違っていると言われたような気がした。
「正しいことが出来る子に育っていたのに、私は別のことしか見ていなかったんです。とても良い子に育っていました……。
でも、思うんです。正義を通して死んでしまうより、生きていて欲しかったと……思うんです」
カイの父親の声が、言葉が最後になるにつれ涙声になって行くのが分かった。
やっぱり……カイ兄ちゃん、死んじゃったんだ。門亜の目からつーっと一筋、涙が流れた。空気になっても、カイ兄ちゃんは帰ってこない。
門亜はのろのろと自分の部屋に戻って行った。そして、ベッドに突っ伏すと静かに涙を流し続けた。
もう……引き止められないんだ……。
何もない空間で、引き止め続けた想い。それがするり、と手からすり抜けて飛んで行ってしまうように門亜には感じた。
まるでゆっくりと上がっていく風船のように。一旦手を離すと届きそうで届かない、昔飛ばしてしまった風船のように思えた。
しばらくして、玄関から人が出る音がした。門亜はドアが閉まる音が聞こえると、とん、とん、と音を出しながら下りて行った。
「カイ兄ちゃんのお父さん?」
門亜は聞いた。すると、母親はうなずきながら言った。
「お引越しのあいさつにいらしたのよ。カイ君のお父さんとお母さん、別々の所に住むんですって……もう、会えなくなるわね……」
ああ……カイ兄ちゃんの、存在のかけらすら消えてしまったんだ。
門亜はうつむいた。もう……どこを探しても、一瞬光るなにか、すら見つけることが出来ない。
ふいに門亜の脳裏に、カイの
『お前は家に帰れ。いいか、絶対だぞ』
と言う声が聞こえて来た。
その声は門亜に、こっちにいろ、こっちで過ごせ。そう言っているかのように聞こえた。
「お母さん、今日は何日?」
門亜は聞いた。そして、母親から日付を聞いた門亜は驚いた。新学期が始まってから、数日経っていた。
「明日、学校に行く」
そう言うと、門亜は食事を済ませ、自分の部屋へと戻った。
夏休みの宿題は終わらなかったけど……いいや。先生に言ってもう少し待ってもらおう。プールの授業は終わっちゃったな。普通の授業の準備をしよう。
門亜はランドセルに教科書やノートを入れて行った。
ベースを教えてもらいに行く約束は守れなかった。みんなにはもう大分会ってない。
ボクがいなくても……別に回るんだ。きっと。
チクリ。心の奥で針に刺されたような痛みが走った。
読んでくださりありがとうございます。
第9章 別れ 完結です。
ここまで長く、悲しみを書くつもりはなかったのですが、門亜の悲しみが深いほど、長くなって行きました。
次は10章 最終章になります。
最後までお付き合いいただけると嬉しいです。




