第9章 別れ③
次に目を覚ましたのは、深夜だった。
部屋の扉をそっと開けると、家の中の電気は消えていた。学習机の上には、新しい水のペットボトルと、お昼の煮物が乗っていた。
うーん。食べるだけで疲れそうなんだけどな。
門亜はそう思ったが、これで食べないと捨てられてしまうであろう煮物たちがかわいそうになり、1つ、2つと口に運んだ。そしてコップに水を入れると飲み干した。
月の光が、カーテンの隙間から差し込んできた。ほんの少し、門亜はカーテンをずらして空を見上げると、月が青白く光っていた。
……夜の公園で見上げていたのは星だったかな……月だったかな……。
あの時、パトカーが来なかったらもう少しお話が出来たかな。そして、ボクと一緒に帰ってくれたかな。
……カイ兄ちゃん……。ボクはカイ兄ちゃんのおかげで、音環たちと安全なところにいられたんだよ……。ごめんなさい……。
門亜の目に涙が浮かんできた。
ぽふん。門亜はベッドに倒れこんだ。そして、顔を枕にうずめた。
蚊に喰われて真っ赤になったボクの腕に、音環は薬を塗りこんでくれたよ。カイ兄ちゃん。ボクもカイ兄ちゃんの腕に薬を塗ってあげればよかったね。
会いたい……会いたいよ……。
門亜は涙をいくつも流しながら、そのまま眠ってしまった。
翌朝、水を飲みに階段を降りると、母親から「これから出勤するから」と声をかけられた。その次の日の朝も声をかけられた。そして、その次の日の朝も。
……おかしい。いつもならどこかで準夜勤と夜勤が入っているはずだ。
門亜は、心の中で首をかしげたが、母親の声掛けにはただうなずいた。
階段の下で横になることも無くなった。疲労感は続いていたが、ゆっくりでなら、階段を上り下りするのも苦しくなくなった。
昼はひたすら寝て過ごした。そして、夜になると空を見上げては月を見たり、雲が流れるのを見たりして過ごした。
オリオン座が、明け方よりも夜に近い時間に上がってくるのを見た。
「カズヤが言ったとおりだ」
急に、ギターを教えてくれた音環の息吹や、漬物の汁が被ったホットケーキを食べたすべっタローの顔が浮かんできた。
カブの浅漬け、食べたいな……。
門亜の口の中に、音環のおばあさんが漬けてくれたカブの浅漬けの味が甦ってきた。
作り方を教えてもらったのに……作っていなかった。明日も日勤なら、作ってもらえるかな。
……もう寝よう。最近は昼間寝てばかりいるから、夜はお母さんに会えていない。昼間、起きていられるようにしないと。
――それでも翌日、門亜が目を覚ましたのは昼近くだった。
帰りがけにカブを買って来てもらえないな……。残念。門亜はそう思いながら階段を降りて行った。
食事を済ませ、シャワーを浴びて部屋に戻ると、隣の家が少しざわざわしていた。
門亜はそっとカーテンを開けて外を見た。隣の家の前にトラックが停まっていて、家の中から大きな荷物を運び出しては積み込んでいった。
門亜はその様子をただぼーっと見ていた。家は不思議だ。どれだけの荷物を飲み込んでいたのだろう。
荷物の中には、小学生が使うような、古びた学習机があった。マジックで、車の絵らしいものが描いてあった。
ふと、カイを作り上げていた空間が、壊されて無くなっていくような感覚に覆われた。カイが映像の中の人のように思えた。
カイ兄ちゃん、どんな顔をしていたっけ……。門亜は必死に思い出そうとした。
夜の公園の時の顔、下校の時にあった時の顔……。
どちらも夜の闇や逆光でよく見えなかったな……。門亜は次に、登校班の班長だった時の顔を思い出してみたが……記憶の奥にもぐりこんで、どれだけ手を突っ込みいれても出てこなかった。
緑のTシャツとハーフパンツで茶色のランドセルまでは浮かんでくるのに……いくら思い出しても後ろ姿しか思い出せなかった。
ふいに、葬式の祭壇のカイの写真が浮かんできた。会うたび、優しい声をかけてくれるような柔らかい表情が何一つない、固い顔をしたカイの顔だった。
映像ですら……ボクの手からすり抜けていく……。
門亜は窓の下に座り込むと、膝を抱えた。蚊一匹すら門亜を傷つけない、安全な空間に、柔らかなカイの腕の感覚はなかった。
しばらくすると、キィ、と言う音とともに金属の扉が閉まる音がした。そして、トラックのエンジンの音がすると、少しして走り去って行った。
ざわざわしていた音が消え、セミの鳴く音だけが単調に響いていた。
門亜はそっとカーテンから隣を覗いた。
……外側はいつもと変わりなかったが、冷たい空気をまとっていた。2階の灯り取りようの小さな窓からは、カーテンが無くなっていた。
この家は今、空っぽなんだ……門亜は自分の心まで空になっていく感覚になった。
空気のカイ兄ちゃんが帰ってきても、もう、誰も迎えてくれない。机やベッドと言ったものですら……。
ぽろり、目から涙が出てくると、門亜は慌ててパジャマの裾でおさえた。パジャマの裾に出来たシミは、どんどん広がって行った。
泣いたら……ホントのことになっちゃう。そして……。
夏休み前に時間を戻せたら。痛切に願った。そこで時間を止められたなら、カイ兄ちゃんはずっと生きられるはず。ボクのとても大切な時間を失っていいから、カイ兄ちゃんを返してください……。
門亜は何度も何度も願った。そして、願い疲れるころ、門亜の部屋の中も薄暗くなっていた。
第9章 別れ③ 投稿しました。
悲しい気持ちは心に存在しながら、現実は別の所にあるアンバランスな心を書きました。
作者が、カイ兄ちゃんの死を悼むのはあまりにもパラドックス的な話ですが、それでも、次は幸せであれ、と願わずにはいられません。
読んでくださりありがとうございます。




