第7章 闇と光②
――いつの間にかうたた寝をしたようだった。
目をこすりながら時計を見ると、夜の11時を少し、過ぎていた。
その時だった。
隣の家から、誰かを叱るような大きな声が聞こえてきた。門亜は耳を澄ませて聞いてみた。すると、
「来年は3年生だろ」「高校はどうするんだ」のような言葉が聞こえてきた。
カイ兄ちゃんが……怒られているのかな。
門亜は聞いてはいけないものを聞いた気がして、慌ててテレビにヘッドホンをつないでかぶった。
テレビの画面には「NHK高校化学」の帯が映っていた。講師のあいさつの後、早速ホワイトボードに書き込みながら説明が入った。
……強い酸を中和させるには強いアルカリが必要です。
……強い酸と強いアルカリは1:1で中和されます。
……酸、塩基が伸ばしている手の数は一つとは限りません。
門亜は画面をぼんやり眺めた。
テレビの中では、講師が
強酸+強アルカリ→水+塩(沈殿)↓
とホワイトボードに書いていた。音楽も生徒の合いの手もない空間。ただコツコツとホワイトボードにマジックが当たる音だけが響いていた。
静かだな。門亜は不思議と、気持ちが静まってきた。
講師の説明は続いた。
……沈殿しないこともあります。塩酸と水酸化ナトリウムの塩。食塩ですね。水に溶けて食塩水になります。
……強酸に弱い塩基を足しても完全に中和されません。出来た塩が酸性を示すからです。
……強酸+弱アルカリ→水+酸性を示す塩
……これは、塩の中にある弱アルカリが水と反応してしまい離れてしまうからです。
講師の説明に、心がギュッとつかまれるようだった。音環との関係に似ている、と思ったとき、門亜の目から涙がにじんだ。
そして、少し前に説明していた、強酸と強アルカリの反応式が音環と大河の姿と重なって見えた。
テレビでは続いて中和滴定の画像が流れていた。
無色透明の液体に一滴加えた瞬間、フラスコの中全体がパッと鮮やかなピンク色に染まったが、門亜にはモノクロームにしか見えなかった。
再び、講師の説明が始まった。
……弱酸に強アルカリを加えていき、中和する前で止めます。
……そうすると、水溶液はアルカリ性を示しますが、そのあと強酸を加えても大きくpHが変わることはありません。
……弱アルカリに強酸を加えてもできます。この場合の水溶液は酸性を示しますが、強アルカリを加えても大きくpHが変わることはありません。
……この水溶液を緩衝溶液と言います。
疲れたな……。
門亜はふう、と息を吐き出すとヘッドホンを外し、水を飲みにキッチンへと向かった。
階段を、トン、トン、と下りて行ったが、電気をつけていない1階に足がすくんだ。誰にも聞かれないように、音を殺して下りて行った。
その時だった。
外で、キィ、と小さな音がしたあと、パタンとドアが閉まるような音がした。そのあと、ガサガサ、何かが抜けるような音がした。
おそるおそるリビングの小さな窓からカーテンを少し開けて外を見ると、走り出すカイの後ろ姿が見えた。
門亜は慌てて家のカギをもつと、外に出た。
――玄関のカギを閉めるのに戸惑ってしまった。そのせいでカイを見失ってしまった。
もっと早く閉めることが出来れば、と自分を責める声が聞こえたが、同時に、門亜の目と耳はカイの影を探していた。
まっすぐ走っていったから……多分こっちだ。
門亜はきょろきょろと周りを見渡しながら、走っては止まり、早足で進んでは見渡してまっすぐと進んでいった。
ひんやりとした夜の空気が門亜の体をしっとりと冷やしていった。
街灯には無数の虫が群がっていた。門亜は、昼間と違う感覚に、何か別の生き物になっていくような気がした。
自動販売機の灯りに白い大きな蛾が止まっていた。羽を動かすのを見たとき、
「ひっ」
と声を出しそうになった。……こっちに来ないで!門亜は泣きそうだった。
どんどん進むと、街灯の数がぽつり、ぽつりと減ってきた。
いつも歩いている道のはずなのに、人がいない街灯だけがついている道は、別の道に見えた。
ふいに、遠くに赤い回転灯が見えた。そして、少しずつ近づいてくるのが見えた。
……隠れないと!
門亜はドキドキと音を立てて動く心臓を抑えながら、隠れられそうな場所を探していると、パトカーはウィンカーを出して曲がっていってしまった。
……助かった。
門亜はゆっくり深呼吸をすると、静かに息を吐き出した。それでも、心臓の鼓動は音を立てたままだった。門亜はしばらくその場に立ち尽くしていた。
……よし、いくぞ。
門亜はぎゅっとこぶしを握りしめると、再び歩き出した。
――ほどなく、門亜は公園へ到着した。外周をぐるっと木で覆われた公園は、街灯がいくつか点いていたが、真っ暗だった。
……入ってみる?
門亜は足がすくんだまま、しばらく動けなかった。それでも、何度も「カイ兄ちゃんを探すんだ」と言い聞かせ、公園へと入っていった。
……カイ兄ちゃん、いるかな……。
門亜は目を凝らして公園の中を見回した。目が公園の暗闇に慣れたころ。2~3回見回すと、ベンチに人影らしいものを見つけた。
カイ兄ちゃんかな。……もしかしたら、酔っぱらって寝ている人かもしれない。
ベンチから見えないよう、門亜は静かに公園の端を歩いた。
枝を踏まないよう。缶を蹴飛ばさないよう。音を立てないように静かにベンチへと近づいて行った。
ベンチの上の人影は、カイだった。ひざを抱え、空を見上げていた。
門亜はほっとすると、ちょこんと隣に座った。
「ちょ!門亜!」
カイは驚くと、小さな声で言った。
「小学生が出歩く時間じゃないだろ」
門亜は聞こえない風で、カイに頭を押し当てると、一緒に空を見上げた。
カイはふぅ、と小さく息を出すと「仕方ないなぁ」と言うように再び空を見上げた。
半分、切り取られた空には、無数の星が光っていた。
時折、蚊がやってきては2人を刺した。
ぺちり。何度となく静かにたたいては、ひざを抱えた。
ふいに、つぶやくようにカイは言った。
「門亜、オレのようになるなよ」
「?」
門亜は押し当てていた頭を離すと、カイを見上げるように見た。
「逆らい続けていると、強い力で逆らえないようにさせられる」
カイは涙を隠すように、抱えた膝に顔を押し当てた。門亜はにじり寄ると、カイに体をくっつけて、頭を押し当てた。
「……あったか」
夜露でしっとりとした体に、お互いの体温は温かかった。
お付き合いくださりありがとうございます。
昔、深夜に通学路を歩いたことがあります。
家出をする勇気はなく、でも少しだけ反抗してみたい気持ちがあって……。
目が慣れるまでの時間や、皮膚感覚が夜に馴染むまでの感覚は、今でも覚えています。
怖くて、それきりになりましたが……。
門亜が歩いた夜の道を思い出しながら書きました。




