第八話
火曜日の朝、坂井さんは封筒ではなく、茶色い革の鞄を持ってきた。
老人が左腕にかけていた鞄だった。
持ち手の革が、片側だけ黒くなっている。
金具はくすんでいた。
底の角に、白い擦れ。
局長は応接用の机に古い新聞紙を敷いた。
鞄はその上に置かれた。
「部屋の中身として、こちらで確認したものです」
坂井さんは一覧を出した。
通帳ケース。
診察券。
古い住所録。
未使用の封筒。
使用済みの切手。
白い封筒、五通。
革鞄、一点。
局長は一覧に目を通した。
「鞄の中は」
「見ました」
坂井さんは小さなビニール袋を出した。
中には、紙片が入っていた。
切手の端。
封筒の切れ端。
小さなメモ。
それから、古い写真。
写真は透明袋に入れられていた。
坂井さんはそれを机に置いた。
若い女性が写っていた。
駅前通り。
今より低い薬局の看板。
時計店の前。
写真の端に、郵便局の自動ドアが少しだけ写っている。
裏には、青いインクで名前が書かれていた。
深沢綾子。
年の数字は、にじんでいた。
私はその名前を記録簿の余白に写した。
深沢清一。
深沢綾子。
同じ名字。
それ以上は書かなかった。
坂井さんは住所録を開いた。
古い黒い表紙。
角が丸くなっている。
五十音の見出し。
あ行。
い行。
紙は黄ばんでいた。
ふ、のところに、綾子、とだけあった。
住所はなかった。
電話番号もなかった。
名前だけ。
局長が指でその行を押さえた。
「この方に、心当たりは」
坂井さんは首を横に振った。
「部屋の書類には出てきません」
私は写真を見た。
時計店のガラス。
自動ドア。
若い女性。
写真の中では、三つとも同じ場所にあった。
午前中、坂井さんは市役所に確認の電話を入れた。
局長は窓口に戻った。
私は三番窓口で、普通郵便を受け付けた。
宛名のある封筒。
差出人のある葉書。
定形外の小さな包み。
量りの皿は、そのたびに沈んだ。
昼過ぎ、坂井さんから折り返しの電話があった。
局長が受話器を取った。
私は遺失物控えを開いた。
白い封筒。
別紙あり。
同形封筒、複数あり。
局長の声は短かった。
「はい」
「はい」
「死亡日ですか」
私はペンを止めた。
局長はメモを取った。
平成二十四年十一月八日。
名前。
深沢綾子。
住所欄。
旧町名。
今はもう使われていない町名だった。
電話が切れたあと、局長はメモを机に置いた。
坂井さんは、午後にもう一度来た。
持ってきたのは、一通の古い郵便物だった。
差出人は病院。
宛名は深沢清一。
消印は平成二十四年十一月。
封筒の端に、輪ゴムの跡がついている。
中は開封済みだった。
坂井さんはそれを局長へ渡した。
「部屋の本棚にありました」
局長は書面を出さず、封筒の外側だけを見た。
病院名。
日付。
深沢清一。
それだけで足りた。
私は、鍵付き引き出しの中の白い封筒を思い出した。
宛名なし。
差出人なし。
日付なし。
白い紙。
「綾子さんは、ご親族ですか」
局長が聞いた。
坂井さんは持ってきた資料を確認した。
「書類上は、確認できません」
「同じ名字ですが」
「はい」
坂井さんは住所録を閉じた。
黒い表紙が、乾いた音を立てた。
午後三時になった。
自動ドアが開いた。
入ってきたのは、時計店の店主だった。
手には、古い腕時計の箱。
「修理品を返送したいんですが」
私は送り状を受け取った。
品名。
腕時計。
割れ物。
宛名。
差出人。
全部そろっていた。
店主は机の上の写真に気づいた。
一度だけ、目が止まった。
「この方」
局長が写真を裏返した。
名前の面は隠れた。
「ご存じですか」
店主は眼鏡を外した。
「昔、うちで働いていた人です」
局内の時計が、三時一分を指していた。
「いつ頃ですか」
「ずいぶん前です」
店主は腕時計の箱を両手で持った。
「亡くなられたのも、うちの店で聞きました」
私は送り状を見た。
腕時計。
割れ物。
宛名。
差出人。
箱は量りの上にあった。
針が止まっていた。
そのあと、店主は料金を払い、箱は受け取り箱へ入った。
音がした。
局長は写真を透明袋に戻した。
坂井さんは住所録をファイルにしまった。
私は記録簿の別紙を開いた。
深沢綾子。
平成二十四年十一月八日。
時計店。
宛先候補。
書かなかった。
関係。
書かなかった。
死亡、とだけ書いた。
夕方、局長が鍵付き引き出しを開けた。
白い封筒は透明な袋の中にあった。
赤いテープの端は浮いたまま。
局長は封筒を出さなかった。
引き出しの奥に、記録の別紙だけを足した。
白い封筒の下ではない。
横でもない。
少し離して。
引き出しを閉めると、机の上に写真だけが残った。
時計店の前。
若い女性。
郵便局の自動ドア。
その写真には、宛名を書く場所がなかった。




