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第六話

 女性は、封筒を持って帰らなかった。


 黒い傘を傘立てに入れたまま、三番窓口の前に立っていた。


「ご本人とのご関係を確認できるものはありますか」


 局長が言った。


 女性は鞄から透明なファイルを出した。


 賃貸契約書の写し。


 管理会社の名刺。


 鍵の預かり証。


 封筒とは違う白さの紙が、カウンターに並んだ。


 契約者名の欄に、老人の名前があった。


 深沢清一。


 私はその文字を見た。


 初めて見る名前だった。


「ご家族ですか」


 局長が聞いた。


 女性は首を横に振った。


「管理会社の者です」


 名刺には、坂井、とあった。


 坂井さん。


 雨の水が、傘立ての下に小さく溜まっていた。


「お部屋の整理を」


 坂井さんはそこで言葉を切った。


 局長は書類を確認した。


「ご本人は」


「入院先から、昨日連絡がありました」


 私は封筒を見た。


 透明な袋。


 赤いテープ。


 二十五グラム。


「亡くなられたわけでは」


 局長の声は低かった。


 坂井さんは鞄の持ち手を握り直した。


「まだです」


 その言い方だけが、窓口の音から少し離れていた。


 局長は頷き、書類を返した。


「それでは、この封筒をお渡しすることはできません」


「はい」


 坂井さんはすぐに答えた。


「わかっています」


 それでも帰らなかった。


 私は椅子を一つ出した。


 坂井さんは座らず、鞄から小さな箱を出した。


 菓子箱くらいの大きさ。


 灰色の紙箱。


 ふたの端に、古いセロハンテープの跡があった。


「部屋に、郵便局のものがありました」


 箱の中には、切手が入っていた。


 八十四円切手。


 十円切手。


 一円切手。


 小さな透明袋に分けられている。


 一円切手だけ、何枚もあった。


 局長が箱をのぞいた。


「これは預かれません」


「はい」


 坂井さんは箱を閉じた。


「ただ、同じ封筒がありました」


 私は顔を上げた。


 坂井さんはファイルから写真を一枚出した。


 部屋の写真だった。


 畳。


 低い机。


 茶色い革の鞄。


 壁ぎわの本棚。


 机の上に、白い封筒が重ねて置かれていた。


 どれも、表は見えない。


「何通ですか」


「数えていません」


 坂井さんは写真の角を指で押さえた。


「触っていいか、わからなくて」


 局長は写真を受け取らなかった。


 私は写真の中の鞄を見た。


 左腕にかけられていた鞄。


 窓口で何度も見た形。


「ご家族に連絡は」


 局長が聞いた。


 坂井さんはファイルをめくった。


 緊急連絡先。


 空欄。


 保証人。


 法人名。


 親族欄。


 未記入。


 紙の上に、何もない欄がいくつも並んでいた。


「契約時からですか」


「はい」


「郵便物は」


「転送の手続きはありません」


 坂井さんは別の紙を出した。


 部屋に残っていた郵便物の一覧。


 電気料金。


 水道。


 町内会費。


 病院からの封書。


 差出人のあるものばかりだった。


 宛名は、深沢清一。


 そこだけは何度も書かれていた。


 私は三番窓口の封筒を見た。


 そこには、何も書かれていない。


 午後四時、坂井さんは帰った。


 灰色の箱は持って帰った。


 写真も、契約書も、ファイルに戻した。


 傘立てから黒い傘を抜くと、水が床に落ちた。


「部屋の整理は、いつまでですか」


 私が聞いた。


 坂井さんは傘の留め具を外した。


「今月末までです」


「封筒は」


「残してあります」


「全部ですか」


 坂井さんは少しだけ考えた。


「机の上のものは」


 自動ドアが開いた。


 雨の音が大きくなった。


 坂井さんは傘を開いた。


「鞄の中は、まだ見ていません」


 ドアが閉まった。


 私は遺失物の控えを開いた。


 品名。


 白い封筒。


 特徴。


 宛名・差出人なし。


 備考欄。


 私はペンを持った。


 深沢清一。


 書かなかった。


 代わりに、別紙あり、とだけ書いた。


 封筒は、量りの横から遺失物棚へ戻された。


 上段ではない。


 中段でもない。


 局長の机の引き出し。


 鍵のかかる場所。


 閉じると、引き出しの音が一度だけした。


 その音のあと、三番窓口の量りが空になった。


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