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第三話

 水曜日に、封筒は棚の上段から中段へ移された。


 上段に、財布が入ったからだった。


 黒い革の二つ折り。拾得場所はATM横。現金は一万二千円。カードが三枚。免許証が一枚。


 局長は財布を透明な袋に入れ、赤いテープを貼った。


 封筒の袋を持ち上げる。


 中段の右端。


 白い封筒は、そこに置かれた。


 私は記録簿を開いた。


 白い封筒。


 拾得場所、三番窓口内側。


 備考欄は空白。


 何も足さなかった。


 午前中、貯金窓口の山下さんが古い伝票の束を持ってきた。


「佐野さんから聞いた」


「何をですか」


「三時の人」


 山下さんは、老人を名前では呼ばなかった。


 伝票の束を棚に入れ、輪ゴムを二本外した。


「私、前に郵便にいたから」


「覚えていますか」


「覚えてる。帽子の人でしょう」


 茶色い帽子。


 左腕の革鞄。


 封筒。


 私は頷いた。


 山下さんはカウンターの向こうを見た。今は誰も立っていない三番窓口。床の「お」の字。


「あの人、番号札を取らないのに、列があると一番後ろに並ぶの」


「番号札は」


「取らない」


「でも並ぶんですか」


「うん。線の内側で」


 山下さんは、手元の伝票をそろえた。


「自分の番が来るまで、時計を見てた」


「局内の時計ですか」


「ううん」


 山下さんは入口のほうを指した。


 自動ドアの上に、丸い壁時計がある。


 秒針の音はしない。


 でも針は見える。


「あれ」


 私は時計を見た。


 十一時二十六分。


「三時ちょうどじゃないと、出さないんですか」


「出してないでしょう」


 山下さんはそう言って、伝票の角を指で整えた。


「でも、三時前に呼ぶと、少し待つの」


「待つ?」


「窓口の前で。封筒を出す前に」


 山下さんは、片手をカウンターに置いた。


 何も持たない手。


「左を見る」


 私は山下さんの視線を追った。


 左には自動ドアがある。


 その外に、駅前通り。


 薬局。


 パン屋。


 古い時計店。


「それから封筒を出す」


 山下さんは手を引いた。


「それだけ」


 昼過ぎ、集配から戻った森さんが郵便ケースを台車に載せて入ってきた。


 森さんは三番窓口の横を通る時、棚の封筒に目を止めた。


「あれ、まだあるんだ」


「見ましたか」


「昨日」


「いえ、前に」


 森さんは台車の持ち手に腕を乗せた。


「三時の人だろ」


 また名前ではなかった。


「外で見たことありますか」


「あるよ。時計店の前」


 私は手元のボールペンを置いた。


「いつですか」


「何度も」


 森さんは配達用の帽子を脱いだ。額に帽子の跡がついていた。


「三時の少し前に、時計店のショーケースを見る。時計を見てるのか、ガラスを見てるのかは知らない」


「ガラス」


「反射するだろ、あそこ」


 駅前の時計店には、大きなガラスがある。古い柱時計と腕時計が並んでいる。午後になると、店の前の歩道がそこに映る。


「そのあと郵便局に来る」


 森さんは台車を押した。


 車輪が床の継ぎ目で小さく跳ねた。


「帰りは」


「さあ。配達に出てるから」


 森さんは仕分け室へ入っていった。


 二時四十五分。


 私は休憩の札を外し、三番窓口に戻った。


 自動ドアの向こうに、時計店が見えた。


 ガラスの前を、人が通る。


 買い物袋を持った女性。


 制服の学生。


 ベビーカーを押す男性。


 誰も止まらない。


 二時五十八分。


 私は入口の上の時計を見た。


 短い針。


 長い針。


 秒針はない。


 三時。


 自動ドアは開かなかった。


 それでも私は、カウンターの左側を見た。


 老人が見ていた場所。


 そこには郵便料金表がある。番号札の小さな機械がある。外から入る光が、カウンターの端に薄く乗っていた。


 三時一分。


 客が一人入ってきた。


 紺色の作業着を着た男性だった。ゆうパックの箱を持っている。


 私は送り状を確認した。


 品名。


 衣類。


 割れ物なし。


 箱を量りに載せる。


 針が動く。


 その時、男性の後ろで、自動ドアがもう一度開いた。


 私は顔を上げた。


 入ってきたのは、配達証明を出す女性だった。


 茶色い帽子ではなかった。


 左腕の革鞄でもなかった。


 私は箱の重さを端末に入力した。


 料金を伝えた。


 男性は財布を出した。


 支払いを待つ間、私はカウンターの左側を見た。


 老人は、ここで何を見ていたのか。


 番号札。


 自動ドア。


 外の時計店。


 言葉にはしなかった。


 夕方、山下さんが帰る前に言った。


「あの人、一度だけ早く来たことあるよ」


 私はロッカーの鍵を回す手を止めた。


「何時ですか」


「二時半くらい」


「窓口に」


「来なかった」


 山下さんはコートを腕にかけた。


「外にいた。時計店の前」


「そのあと三時に」


「来た」


「封筒は」


「持ってた」


 山下さんは少し考えた。


「でも、その日は封筒を右手で持ってた」


「いつもは」


「左の鞄から出す」


 ロッカー室の蛍光灯が白く光っていた。


 山下さんは鞄を肩にかけた。


「その日、外に誰かいたのかもしれないね」


 私は返事をしなかった。


 窓口に戻ると、遺失物棚の中段に封筒があった。


 透明な袋の中。


 赤いテープ。


 白い紙。


 私は棚の扉を閉めた。


 ガラスに、三番窓口が映った。


 床の「お」の字。


 カウンターの左側。


 誰も立っていない場所。


 その向こうに、自動ドアが小さく映っていた。


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