第六話「言えない距離」
店のドアを開けたとき、少しだけ躊躇した。
理由は分かっている。
でも、来ない理由もなかった。
藤村要は、いつもよりゆっくりと中に入る。
カウンターの端。
自然と、同じ席に座る。
「いらっしゃい」
マスターの声は変わらない。
その変わらなさが、逆に落ち着かない。
グラスが置かれる。
氷の音。
(……いつもと同じやのに)
中身だけが違う。
数日前とは、確実に。
ようこのことを考えないわけがない。
あの夜のことも。
触れた感覚も。
「……」
無意識に、手を見る。
少しだけ、力が入る。
そのとき――
「こんばんは」
静かな声。
横を見る。
れいかだった。
前と同じ場所。
でも、前とは違う空気。
「……こんばんは」
要は少しだけ遅れて返す。
れいかは軽く頭を下げて、隣に座る。
距離は、少しだけある。
ようことは違う。
でも――
その距離が、逆に意識に残る。
「よく来るんですね」
れいかが言う。
「……最近は」
曖昧に答える。
それ以上は言わない。
言えない。
「そうなんですね」
それだけ。
深く聞かない。
でも、何も気にしていないわけでもない。
沈黙が落ちる。
静か。
でも、前とは違う。
どこか、探るような空気。
「この前は、すみませんでした」
れいかが小さく言う。
「え?」
「途中で帰ってしまって」
「ああ……」
何て返していいか分からない。
「……大丈夫です」
それしか言えない。
れいかは少しだけ頷く。
グラスに視線を落とす。
その横顔が、やけに静かで。
「……あの人、来てないんですね」
ぽつりと言う。
ようこのことだと、すぐ分かる。
「……今日は」
言葉を濁す。
嘘はついていない。
でも、全部は言っていない。
れいかはそれ以上聞かない。
ただ、小さく「そうですか」と言う。
その距離が、少しだけ痛い。
(……なんやこれ)
落ち着かない。
ようこといるときとは違う。
触れていないのに、
こっちの方が、意識する。
「藤村さんって」
れいかがゆっくり言う。
「優しい人ですね」
「……いや」
すぐに否定する。
「そんなことないです」
「そうですか?」
少しだけ、こちらを見る。
真っ直ぐな視線。
逸らしたくなる。
でも、逸らせない。
「優しい人って、ちゃんと迷うと思うんです」
静かな声。
でも、芯がある。
「……」
何も言えない。
言われていることが、分かるから。
「無理しなくていいと思います」
れいかはそう言って、視線を外す。
「こういう場所って、いろんな人いますし」
軽く笑う。
でも、その笑いはどこか寂しい。
「……」
要はグラスを持つ。
手が少しだけ冷たい。
でも――
さっきとは違う意味で。
「私、人見知りなんです」
れいかが言う。
「だから、こういう場所もあんまり来ないんですけど」
少しだけ間を置く。
「藤村さんとは、話しやすいです」
その言葉に、少しだけ胸が動く。
「……そうですか」
それしか言えない。
でも、その一言で、何かが揺れる。
ようこといるときとは違う感覚。
静かで、
ゆっくりと入ってくる。
そのとき――
ドアのベルが鳴る。
空気が変わる。
振り返らなくても分かる。
「来てたんだ」
ようこの声。
一瞬で、全部が繋がる。
「……」
何も言えない。
れいかも、ゆっくりと顔を上げる。
ようこがカウンターに近づく。
視線が、二人をなぞる。
一瞬だけ。
でも、十分すぎる。
「隣、いい?」
前と同じ言葉。
でも、前より重い。
「……どうぞ」
要は答える。
ようこが座る。
距離が、一気に近くなる。
さっきまでの空気が、崩れる。
れいかは何も言わない。
でも、グラスを持つ手が、少しだけ強くなる。
「今日は、賑やかやね」
ようこが軽く言う。
その声が、やけに静かに響く。
(……やばいな)
分かる。
これは――
ただの会話じゃ終わらない。
グラスの氷が、またひとつ鳴る。
その音が、やけに大きく聞こえた。
ようこは、何もなかったみたいに座っている。
でも、何もないわけがない。
距離が、近い。
腕が触れるか触れないか――
いや、少しだけ触れている。
避けようと思えば、避けられる距離。
でも、避けない。
(……)
れいかは、少しだけ視線を落としている。
グラスを見ている。
でも、意識はここにある。
分かる。
「藤村さん」
先に口を開いたのは、れいかだった。
静かに、でもはっきりと。
「この前の話、覚えてますか」
「……」
一瞬、言葉に詰まる。
「……少しは」
曖昧に答える。
ようこが、そのやり取りを見ている。
何も言わずに。
「慣れって、怖いっていう話」
れいかは続ける。
「私、あれからちょっと考えてたんです」
グラスに指を添える。
「慣れる前に、やめた方がいいこともあるのかなって」
その言葉に、空気がわずかに変わる。
ようこの指が、ほんの少し動く。
要の手に、触れる。
軽く。
でも、はっきりと。
「例えば?」
ようこが、静かに割って入る。
声は穏やか。
でも、逃げ場はない。
れいかは少しだけ顔を上げる。
ようこを見る。
視線が、ぶつかる。
「……曖昧な関係、とか」
そのまま言う。
はっきりと。
ようこは一瞬だけ黙る。
ほんの、短い間。
でも、その沈黙が一番重い。
「曖昧かな」
ようこがゆっくり言う。
軽く、グラスを回す。
「私は、そんなつもりないけど」
その言葉と同時に――
指が、少しだけ強く絡む。
要の手に。
逃がさないように。
(……)
心臓の音が、やけに大きい。
どっちも、間違っていない。
でも、どっちにも行けない。
「藤村さんは?」
れいかが、こちらを見る。
まっすぐ。
逃げられない視線。
「……」
答えないといけない。
でも、言葉が出ない。
ようこの手の温度。
れいかの視線の静けさ。
両方が、同時に来る。
「……まだ」
やっと出た言葉。
「よく分からないです」
正直だった。
誤魔化していない。
でも――
それが一番、中途半端だった。
ようこの指が、一瞬だけ止まる。
でも、離さない。
「そっか」
短く言う。
感情は見せない。
でも、さっきより少しだけ距離が近くなる。
「じゃあ、分かるまで側におる」
静かに言う。
逃げ道を塞ぐように。
れいかは、そのやり取りを見ている。
何も言わない。
でも、その目が少しだけ揺れる。
「……私は」
れいかが口を開く。
声は小さい。
でも、はっきりしている。
「無理に選ばなくていいと思います」
ようこが、ほんの少しだけ視線を動かす。
「ただ――」
れいかは続ける。
「自分で決めないと、ずっとそのままになりますよ」
静かな言葉。
でも、刺さる。
要は、何も言えない。
どちらの言葉も、分かるから。
「……今日は帰ります」
れいかが立ち上がる。
グラスを置く。
音が、やけに響く。
「お疲れ様です」
要に向けて、小さく言う。
「……はい」
それしか返せない。
れいかは一瞬だけようこを見る。
何も言わない。
でも、その一瞬に全部入っている。
そのまま、店を出る。
ドアのベルが鳴る。
静かになる。
残るのは――
近すぎる距離と、言葉にならない空気。
「……困ってるやん」
ようこが小さく笑う。
でも、その声は少しだけ低い。
「……はい」
正直に言う。
「分かりやすいな」
そう言って、指がゆっくり離れる。
今度は、完全に。
さっきまであった温度が、急に消える。
「でも」
ようこが続ける。
グラスを持ちながら。
「逃げるのは、あかんで」
その言葉が、静かに残る。
「中途半端、一番嫌いやから」
視線が合う。
逸らせない。
「……はい」
短く答える。
ようこは小さく頷いて、
「今日は帰るわ」
とだけ言った。
あっさりしている。
でも、その軽さが逆に重い。
立ち上がる。
「またね」
振り返らずに言う。
ドアが開く。
閉まる。
完全に、一人になる。
要はグラスを見る。
氷が、ゆっくり溶けている。
(……どうするんやろな)
答えは、まだ出ていない。
でも――
出さないままでは、いられない。
そんな気がした。
第6話終了。




