第四話「同じ場所、違う距離」
ドアを開けた瞬間、空気の重さが少し違った。
雨の夜から、三日。
藤村要は迷わず同じ店に入る。
理由ははっきりしている。
考えるまでもなく、足が向いていた。
カウンターの端。
前と同じ席。
でも今日は――
「いらっしゃい」
マスターの声の奥に、いつもと違う気配があった。
視線を横に流す。
知らない女が、一人。
背が高い。
髪は長く、少しだけ下を向いてグラスを見ている。
静かだが、存在感だけははっきりある。
(……誰やろ)
そう思った瞬間、視線が合う。
一瞬だけ。
すぐに逸らされる。
でも、その一瞬が妙に残る。
「初めて見る顔ですね」
小さな声。
思っていたより、柔らかい。
「……最近、来るようになって」
要は短く答える。
「そうですか」
それだけ。
それ以上、踏み込んでこない。
でも、気にしていないわけでもない。
その距離感が、少しだけ気になる。
グラスが置かれる。
氷の音。
店の静けさに、少しだけ緊張が混ざる。
(なんやろな、この感じ……)
落ち着かないわけじゃない。
でも、いつもと違う。
理由はすぐに分かる。
「来てたんだ」
後ろからの声。
振り返る前に分かる。
ようこだ。
「……はい」
自然と姿勢が整う。
ようこがカウンターに近づく。
視線が、一瞬だけ要とその女の間を通る。
ほんの一瞬。
でも、はっきり分かる。
「隣、いい?」
いつもと同じ言い方。
でも、断れる空気じゃない。
「……どうぞ」
ようこが座る。
距離が近い。
前よりも、少しだけはっきりと。
腕が軽く触れる。
避ける気配はない。
(……)
何も言えない。
言う必要もない。
でも、感じる。
横の気配。
そして――
反対側からの視線。
「れいか」
ようこが軽く言う。
「こっちは要さん」
「……どうも」
要が頭を下げる。
「れいかです」
小さく、でもはっきりした声。
顔を上げると、少しだけ視線が合う。
すぐに逸らされる。
でも、その前に――
どこか探るような目をしていた。
沈黙が落ちる。
短い。
でも、さっきより重い。
「仕事帰り?」
ようこが自然に話を振る。
「……はい」
「今日も長距離?」
「関東から」
「お疲れ」
軽く微笑む。
その笑顔が、近い。
距離だけじゃない。
空気ごと、近い。
れいかが、その様子を見る。
何も言わない。
でも、グラスを持つ手が一瞬だけ止まる。
「すごいですね」
突然、れいかが言う。
要を見る。
「そんなに運転して、疲れないんですか」
「……慣れてるだけです」
「慣れ、ですか」
少しだけ考えるように繰り返す。
「でも、ちょっと羨ましいです」
「え?」
「いろんな場所、行けるの」
その言葉に、ようこの視線がわずかに動く。
ほんの少し。
でも、はっきりと分かる。
(見られてる……)
れいかと話しているのに、
意識は隣に引っ張られる。
距離も、熱も。
「……そんな大したもんじゃないです」
グラスを持つ。
その瞬間――
ようこの指が触れる。
今度は、はっきりと。
一瞬じゃない。
少しだけ、長い。
離れない。
れいかの視線が、そこに落ちる。
空気が、変わる。
静かに。
でも確実に。
「……仲いいんですね」
れいかがぽつりと言う。
ようこはすぐに答えない。
少しだけ間を置いて――
要の方を見る。
「どう思う?」
問いが来る。
逃げ場がない。
れいかも見ている。
マスターも、何も言わずにいる。
「……」
言葉が出ない。
正解が分からない。
でも、答えないといけない。
「……まだ、そこまでじゃないです」
やっと出た言葉。
ようこが、ほんの少しだけ笑う。
でも、その笑いは柔らかくない。
「そっか」
短く言う。
その直後――
指が、強く触れる。
今度ははっきりと、絡む。
離さない。
(……)
何も言えない。
でも、離さない。
れいかが視線を落とす。
グラスの中を見る。
「……私、そろそろ行きます」
席を立つ。
早い。
でも、不自然じゃない。
「お疲れ」
ようこは止めない。
ただ、静かに言う。
れいかはドアの前で一瞬だけ振り返る。
要を見る。
何か言いたそうに。
でも、言わない。
そのまま出ていく。
ドアが閉まる。
静かになる。
残るのは――
近すぎる距離。
「……困る?」
ようこが小さく言う。
指は、まだ絡んだまま。
「……いや」
「ほんとに?」
少しだけ顔を寄せる。
逃げられない距離。
「じゃあ」
指に、力が入る。
「ちゃんと、見て」
静かな声。
でも、強い。
要は、ようこを見る。
逸らさない。
逸らせない。
そのまま――
距離が、また少しだけ近づいた。
ここで第4話終了。




