第三話「雨の夜、近すぎる距離」
外に出た瞬間、雨の音が強くなった。
店の中では気づかなかったが、思っていたより降っている。
アスファルトに弾く音が、一定のリズムで響いていた。
「……結構、降ってるね」
ようこが空を見上げる。
その横顔を、要は少しだけ見ていた。
「車、どっち?」
「向こうです」
指を差す。
店の軒先から、少し歩いた先。
でも、その間に屋根はない。
「走ればいけるかな」
ようこが軽く言う。
「……濡れますよ」
「ちょっとくらいなら、いいでしょ」
そう言って、一歩踏み出しかけて――
止まる。
雨が、一段と強くなる。
さっきより、明らかに。
「……やっぱ無理か」
小さく笑う。
二人とも、その場に残る。
狭い軒先。
自然と、距離が近くなる。
肩が、触れそうになる。
(近い……)
店の中とは違う。
逃げ場がない。
横にずれるスペースも、ほとんどない。
少し動くだけで、触れる距離。
「ねえ」
ようこが、静かに言う。
「今日、なんか違うね」
「……何がですか」
「前より、ちゃんと喋ってる」
少しだけ顔を向けてくる。
視線が合う。
雨音が大きくて、逆に二人の空間だけが切り取られたみたいに感じる。
「……慣れてきたのかもしれません」
「そっか」
ようこはそれ以上追わない。
でも、視線は外さない。
「いいと思うよ」
その一言が、やけに近くで聞こえる。
距離が、さらに縮まる。
肩が、触れる。
軽く、当たる。
でも、お互いに避けない。
そのまま。
「……寒くないですか」
要が言う。
「ちょっとだけ」
ようこが答える。
その声が、少し柔らかい。
迷う。
上着を渡すか。
でも、動こうとした瞬間――
「大丈夫」
先に言われる。
「こういうの、嫌いじゃないし」
そう言って、ほんの少しだけ、こちらに寄る。
完全に、触れる。
肩と腕が、しっかりと当たる。
(……やばいな)
鼓動が、はっきりと速くなる。
距離を取るべきなのに、取れない。
「緊張してる?」
「……してます」
正直に答える。
ようこが、小さく笑う。
「分かる」
そのまま、顔が近づく。
息が、わずかに触れる距離。
視線が、自然と下に落ちる。
唇。
一瞬だけ見て、すぐ逸らす。
――逸らしたはずだった。
「……見た?」
静かに言われる。
逃げ場のない声。
「……」
言葉が詰まる。
ごまかせない。
「正直でいいよ」
少しだけ、さらに近づく。
「……見ました」
ようやく出た言葉。
ようこは、ほんの少しだけ目を細める。
「そっか」
それだけ。
でも、距離はそのまま。
むしろ――
もう一歩、詰めてくる。
胸元が触れる。
柔らかい感触が、服越しに伝わる。
頭が、うまく回らない。
「ねえ」
ようこが小さく言う。
「逃げる?」
試すような言い方。
でも、優しさが残っている。
「……逃げません」
即答だった。
自分でも、驚くくらい。
ようこは、少しだけ息を吐く。
「いいね」
そのまま、手が伸びる。
要の手に、触れる。
冷えていたはずの指先が、じんわりと熱を持つ。
ゆっくりと、絡められる。
指と指が、はっきりと重なる。
離す理由が、なくなる。
雨音が強くなる。
世界が、この場所だけに絞られる。
「……ほんまにいいの?」
最後の確認みたいに、囁く。
「……はい」
ようやく答える。
声は少しだけ低くなっていた。
ようこが、わずかに頷く。
そのまま、顔が近づく。
距離が、なくなる。
唇が触れる直前――
ほんの一瞬、止まる。
時間が伸びる。
逃げるなら、今しかない。
でも、動かない。
動けない。
そのまま――
静かに、重なる。
長くはない。
触れるだけの、短いキス。
でも、それで十分だった。
離れたあとも、距離は戻らない。
指は、まだ絡んだまま。
「……帰る?」
ようこが聞く。
でも、その声はさっきとは違う。
少しだけ、低くて。
「……帰りません」
要は答える。
迷いは、なかった。
ようこは小さく笑って、
「そっか」
とだけ言う。
そのまま、指を引く。
自然に、手を引かれる。
雨は、まだ止まない。
でも、さっきまでとは違っていた。
冷たさよりも、
別の熱が、はっきりと残っている。
ここで第3話終了。




