第二話「隣にいる理由」
グラスの氷が、静かに鳴る。
その音だけが、やけに耳に残った。
店に入ってから、まだ数分。
藤村要は、カウンターの端で背筋を少しだけ固くして座っている。
落ち着かないはずなのに、なぜか逃げたいとは思わなかった。
隣にいる女――ようこが、そうさせているのかもしれない。
「こういうとこ、あんまり来ないでしょ」
横から、静かに声がくる。
「……分かります?」
「分かる」
ようこはグラスを軽く揺らしながら言う。
「座り方が、ちょっとだけ真面目すぎる」
思わず、自分の姿勢を気にする。
「別に悪い意味じゃないよ」
少しだけ笑う。
その笑い方が、やけに自然で――
要は目を逸らした。
「……トラック乗ってるって言ってたよね」
「はい」
「長距離?」
「関西と関東、行き来してます」
「へえ」
短い相槌。
でも、その“それ以上聞かない距離”が心地いい。
無理に踏み込んでこない。
でも、興味は持っている。
そのバランスが、ちょうどよかった。
「疲れない?」
「慣れてるんで」
いつもの答え。
でも今日は、少しだけ違う気がした。
「慣れって、怖いよね」
ようこがぽつりと言う。
「気づいたら、それが普通になる」
グラスの中の氷が、また鳴る。
要は何も返せなかった。
でも、その言葉は妙に残った。
(……確かに)
今の生活も、全部“慣れ”だった。
何も感じなくなっていることすら、普通になっている。
「でも」
ようこが続ける。
「たまに崩したくならない?」
少しだけ、こちらを見る。
逃げ場のない視線。
「……今日が、そうかもしれません」
気づけば、そう言っていた。
ようこは一瞬だけ目を細めて、
「いいやん」
と小さく言った。
その一言で、少しだけ肩の力が抜ける。
沈黙が落ちる。
でも、さっきとは違う。
重くない。
むしろ、少しだけ心地いい。
要はグラスを持ち上げる。
そのとき――
指が、触れた。
ようこの指に。
ほんの一瞬。
でも、はっきりと分かる。
「……すいません」
反射的に言う。
「ううん」
ようこは気にした様子もなく、
「冷たいね」
とだけ言った。
「え?」
「手」
視線を落とす。
自分の手と、彼女の手。
まだ、触れている。
離そうと思えば、離せる距離。
でも――
離さなかったのは、自分だった。
「緊張してる?」
少しだけ、顔を寄せてくる。
距離が、近い。
思っていたよりも、ずっと。
「……してます」
正直に答えるしかない。
ようこは小さく笑う。
「分かりやすいね」
その声が、近い。
耳に残る。
「こういうとこ、慣れてないんやね」
「……はい」
否定できない。
昔の自分なら、違ったかもしれない。
でも今は、違う。
その事実が、少しだけ苦い。
「別にいいと思うけど」
ようこはそう言って、視線を外す。
その瞬間――
指が、ゆっくりと離れる。
でも、完全には離れない。
指先だけが、かすかに触れたまま残る。
「無理に話さなくていいよ」
グラスを揺らしながら言う。
「こういう時間、嫌いじゃないし」
静かな時間が流れる。
会話はほとんどない。
でも、隣の気配がはっきりと分かる。
距離が、近い。
近いまま、何も起こらない。
その“何も起こらなさ”が、妙に意識に残る。
(……なんやろな、これ)
落ち着くような、落ち着かないような。
でも、嫌じゃない。
むしろ――
少しだけ、離れたくないと思っている。
横を見る。
ようこも、こちらを見ていた。
目が合う。
逸らせない。
「……また来る?」
軽く聞いているようで、
どこか逃げ場のない言い方だった。
「……来ます」
間を置いて、答える。
ようこは小さく頷く。
「じゃあ、その時にまた」
それだけ。
でも、その一言で――
次に来る理由が、はっきりできてしまった。
要はグラスを見つめる。
氷が、ゆっくりと溶けていく。
その静かな時間が、
これまでのどの時間よりも、はっきりと残っていた。
ここで第2話終了。




