第十五話「最後の誘惑」
電話が鳴ったのは、夜の遅い時間だった。
見慣れない時間帯。
画面を見る。
「なおみ」
名前を見た瞬間、少しだけ息が止まる。
(……)
出るか、迷う。
でも――
逃げないと決めたばかりだ。
通話ボタンを押す。
「……はい」
「起きてるやん」
軽い声。
相変わらずの調子。
「……どうしました」
「今から来れる?」
即答だった。
理由は言わない。
いつも通り。
「……どこですか」
「送るわ」
そのまま電話が切れる。
(……強引やな)
でも、不思議と嫌じゃない。
しばらくして、メッセージが来る。
場所のピン。
少し離れた場所。
(……)
迷いはある。
でも――
行かない選択は、頭に浮かばなかった。
車を走らせる。
夜は深い。
人も少ない。
信号も、やけに長く感じる。
(……最後にするか)
ふと、そんな考えが浮かぶ。
なおみの顔。
あの距離。
あの温度。
全部、思い出せる。
でも――
それを“最後にする”という考えが、初めて出てきた。
車を停める。
指定された場所。
小さなバーの前。
ネオンが、静かに光っている。
ドアを開ける。
中に入る。
なおみがいた。
カウンターの奥。
一人でグラスを持っている。
「遅い」
第一声。
でも、怒っていない。
「……すいません」
自然と出る。
なおみが少しだけ笑う。
「ええよ」
軽く言う。
「来たし」
それだけで十分、という顔。
隣に座る。
距離が近い。
前と同じ。
いや――
前よりも、少しだけ意識している。
「飲む?」
「……少しだけ」
グラスが出てくる。
氷の音。
静かな店。
二人だけ。
「なあ」
なおみが言う。
横目で見る。
「決めた?」
いきなり核心。
「……まだです」
正直に答える。
「そっか」
軽く言う。
でも、すぐに続ける。
「でも、そろそろやろ」
視線が刺さる。
「……はい」
否定できない。
「ようこは?」
「……話しました」
「怒ってた?」
「……怒ってはないです」
「一番めんどくさいやつやな」
少し笑う。
その通りだった。
「れいかは?」
「……待つって言われました」
なおみが、少しだけグラスを回す。
「ええ子やな」
ぽつりと。
その一言に、少しだけ違和感がある。
「……そうですね」
短く答える。
「で?」
なおみがこちらを見る。
距離が、近づく。
「どうすんの」
真正面から。
逃げられない。
「……決めます」
同じ言葉。
でも、意味は違う。
「逃げずに」
付け加える。
なおみは少しだけ黙る。
それから――
笑う。
「つまらんな」
あっさり言う。
でも、目は笑っていない。
「……そうですか」
「前の方がおもろかった」
正直な言葉。
でも、嫌な感じはしない。
「でもな」
少しだけ近づく。
肩が触れる。
「それでも来たんやろ」
その一言が、重い。
「……はい」
否定しない。
「じゃあ」
なおみの手が伸びる。
頬に触れる。
あの時と同じ。
でも――
違う。
今回は、分かっている。
「最後にしとく?」
試すような声。
低い。
「……」
頭の中に、色んな顔が浮かぶ。
ようこ。
れいか。
そして――
今の自分。
(……)
ゆっくり息を吐く。
逃げない。
「……はい」
短く答える。
なおみが、少しだけ目を細める。
「ええやん」
そのまま、距離が消える。
唇が重なる。
前と同じ。
でも――
意味が違う。
流されていない。
分かって、受けている。
時間が少しだけ止まる。
やがて、離れる。
なおみが、少しだけ笑う。
「ほんまに最後やで?」
「……はい」
はっきり言う。
今度は迷わない。
なおみは少しだけ頷く。
「そっか」
グラスを持つ。
一口飲む。
「ほな、終わりやな」
軽く言う。
でも、その軽さが、少しだけ寂しい。
「……ありがとうございました」
自然と出る。
なおみが笑う。
「そういうとこやで」
最後まで、変わらない。
店を出る。
夜の空気が、少しだけ冷たい。
でも――
頭は、はっきりしている。
「……」
一つ、終わった。
そう分かる。
残っているのは――
ちゃんと向き合うべきものだけ。
車に乗る。
エンジンをかける。
迷いは、まだある。
でも――
逃げ道は、もうない。




