第十二話「何もない時間」
エンジンをかけても、すぐには走り出さなかった。
店の前の路地。
さっきまでの空気が、まだ残っている気がする。
(……ちゃんと決めてから来て)
ようこの言葉が、頭の中で繰り返される。
「……」
ハンドルに手を置いたまま、動けない。
返す言葉は、あったはずなのに。
出なかった。
いや――
出せなかった。
「好きって言えへんやろ?」
その言葉も、残っている。
(……)
目を閉じる。
ようこの顔。
なおみの距離。
れいかの声。
全部、はっきり思い出せる。
でも――
一つにまとまらない。
エンジンを吹かす。
ゆっくりと車を出す。
夜の道を走る。
ネオンが流れる。
でも、どこか遠い。
(……帰るか)
そう思っても、家の方向にハンドルを切らない。
気づけば、違う道に入っていた。
昔、よく通った道。
コンビニ。
パチンコ屋。
見慣れたはずの景色。
でも、少しだけ違って見える。
(……こんなもんやったっけ)
車を停める。
エンジンを切る。
静かになる。
店の中の音も、女の声もない。
ただの夜。
ただの一人。
「……」
シートに体を預ける。
深く息を吐く。
(なんでやろな)
昔は、こんなこと考えなかった。
その日を終わらせて、
寝て、
また同じ日が来る。
それでよかった。
それが普通だった。
でも――
今は違う。
「……めんどくさいな」
小さく呟く。
でも、その“めんどくささ”が、嫌じゃない。
むしろ――
少しだけ、必要に感じている。
(ようこは……)
思い出す。
近い距離。
触れた感覚。
まっすぐな言葉。
あの強さ。
(……れいかは)
静かな声。
押してこない距離。
でも、残る言葉。
(……なおみは)
強引な温度。
考える前に、動かされる感じ。
「……」
全部、違う。
でも、全部、残っている。
(欲張りなんやろな)
自分で分かる。
全部欲しいなんて、通るわけがない。
でも――
切り捨てるのも、簡単じゃない。
「……」
スマホを見る。
通知はない。
誰からも来ていない。
(当たり前か)
少しだけ、苦笑する。
前と同じはずなのに。
違って見える。
「……」
ふと、思い出す。
高校の頃。
彼女といた時間。
あのときは――
こんなに考えてなかった。
好きかどうかなんて、
ちゃんと考えたこともなかった。
ただ、一緒にいて、
なんとなく続いていた。
(……今の方が、ちゃんと考えてるな)
でも、その分――
重い。
「……」
シートに深く沈む。
目を閉じる。
静か。
何もない。
でも、その“何もなさ”が、逆にうるさい。
(どうする)
頭の中で、問いが回る。
答えは、出ない。
でも――
一つだけ、分かることがある。
このままではいられない。
どこかで、決めないといけない。
逃げ続けるのは、もう無理だ。
「……」
目を開ける。
夜は、まだ続いている。
でも、さっきまでとは違う。
少しだけ、現実に戻ってきている。
エンジンをかける。
今度は、迷わない。
車を出す。
ゆっくりと。
どこに向かうかは、まだ決めていない。
でも――
止まったままではない。
それだけで、少しだけ違っていた。




