第十一話「見透かされる夜」
ドアを開ける前から、分かっていた。
今日は、逃げられない。
ベルが鳴る。
店の空気が流れ込む。
カウンター。
ようこがいる。
一人。
グラスを持って、静かに座っている。
(……やっぱり)
足が、少しだけ重くなる。
でも、引き返さない。
引き返せない。
「……どうも」
短く言う。
ようこは、こちらを見ない。
グラスを見たまま、
「おかえり」
とだけ言う。
その一言が、やけに刺さる。
隣に座る。
距離は、いつも通り。
でも、空気は違う。
冷たいわけじゃない。
ただ、張っている。
「仕事帰り?」
いつもの質問。
でも、意味が違う。
「……はい」
短く答える。
沈黙。
氷の音だけが、響く。
(……何か言わなあかん)
そう思うのに、言葉が出てこない。
ようこが、ゆっくりグラスを置く。
カラン、と音がする。
「楽しかった?」
ぽつりと聞く。
視線は、まだグラス。
「……」
一瞬で、喉が詰まる。
「外、行ってたやろ」
続けて言う。
分かっている。
全部。
「……はい」
逃げない。
今回は。
ようこが、ゆっくりこちらを見る。
目が合う。
逸らせない。
「なおみと?」
「……はい」
短く答える。
それで十分だった。
ようこは少しだけ頷く。
怒っていない。
でも――
それが一番怖い。
「そっか」
それだけ。
でも、その一言が重い。
沈黙が落ちる。
逃げ場はない。
「……すいません」
気づけば言っていた。
ようこが、ほんの少しだけ笑う。
「何が?」
その問いに、詰まる。
「……」
言葉にできない。
全部が曖昧すぎて。
「謝るくらいなら、やらん方がええで」
静かに言う。
声は強くない。
でも、刺さる。
「……はい」
何も言い返せない。
ようこは少しだけ間を置く。
それから――
「で?」
一言。
「どうするん?」
真正面から来る。
逃げ道がない。
「……」
言葉が出ない。
頭の中が、ぐちゃぐちゃになる。
ようこの距離。
なおみの熱。
れいかの静けさ。
全部が同時に浮かぶ。
「……まだ」
やっと出た声。
「決められてません」
正直だった。
逃げてない。
でも――
それが一番、嫌な答えでもある。
ようこは一瞬だけ目を閉じる。
それから、ゆっくり開く。
「そっか」
短く言う。
感情は見せない。
でも――
空気が変わる。
「じゃあさ」
少しだけ身体を寄せる。
距離が近い。
逃げられない。
「私のこと、どう思ってるん?」
直球だった。
目を逸らせない。
「……」
言葉が詰まる。
でも、ここで逃げたら終わる。
「……必要です」
やっと出た言葉。
ようこが少しだけ動く。
「それ、都合ええだけちゃう?」
即座に返される。
刺さる。
「……」
否定できない。
「好きって言えへんやろ?」
続けてくる。
静かに。
でも、逃げ場を潰す。
「……」
言葉が出ない。
その沈黙が、答えになる。
ようこは、小さく息を吐く。
「やっぱりな」
それだけ。
でも、重い。
指が、テーブルの上で少しだけ動く。
でも、触れてこない。
さっきまでとは違う。
「ええよ」
ようこが言う。
「無理に言わんで」
その言い方が、逆に苦しい。
「でもな」
少しだけ顔を寄せる。
距離が、近い。
「中途半端なまま触られるん、一番嫌いやねん」
低く言う。
「分かる?」
「……はい」
小さく答える。
「やったら」
少しだけ離れて、
「ちゃんと決めてから来て」
その一言で、空気が止まる。
「……」
何も言えない。
「今日はもうええわ」
あっさり言う。
でも、その軽さが一番重い。
ようこが立ち上がる。
「またな」
振り返らずに言う。
ドアに向かう。
止められない。
止める言葉が、ない。
ベルが鳴る。
ドアが閉まる。
静かになる。
完全に、一人。
要は動けない。
グラスの氷が、ゆっくり溶けていく。
(……終わったかもしれんな)
そんな考えが、頭をよぎる。
でも――
終わらせたのは、自分だと分かっている。




