【⑪-3/4】【41】二日目 不快
狂ったように続く笑い声。
体中を粘性の塊が這いずり回り、体のあちこちを強く吸われる。
ただひたすらに不快。
「ん……」
目覚めると、体中汗だくだった。
咄嗟に体のあちこちを確認したが、おかしなところはない。
「夢か……」
目が覚めた直後は鮮明に覚えていたものの、タオルで汗を拭いているうちにその記憶は薄れてゆく。
残ったのは、"とても不快だった"という記憶だけ。
――身支度を整えてから食堂へ。
部屋を出ると、特徴的な紋様の髪留めが落ちているのに気が付いた。
その髪留めに見覚えがある。
昨日、女将が髪に付けていたものだ。
「昨日は気付かなかったな」
魁は髪留めを拾い上げ、そのまま食堂へ向かった。
魁が食堂に入ると、気配を察して奥から女将が出てきた。
「おはようございます、赤神様」
昨日と変わらぬ様子の女将。
「おはようございます。これ、部屋の前に落ちてましたが」
魁は挨拶を返し、髪留めを渡す。
「あら。探してたんですよ。ありがとうございます」
女将は早速、受け取った髪留めで髪を留めた。
特に変わった様子は見受けられない。
――朝食は二人分用意されていた。
魁が席に着くと、当然のように女将も向かいの席に着く。
「いただきます」
特筆すべき事柄のない朝食風景。
今日の予定などを話し、何事もなく終了した。
朝食を終えた魁へ、昼食のおにぎりを差し出す女将。
「いってらっしゃいませ。山道ですので、足元にお気をつけくださいね」
「ありがとうございます」
昼食を受け取り魁は食堂を後にした。
◆◆◆
――案内板に従って山に入った魁。
山道を進んだ先にあったのは、なんとも控えめな滝だった。
それなりに水流の落差はあったが、水量に乏しく迫力に欠ける。
山道を一時間程歩いた先にある滝がこの規模では、一般的な観光資源としては弱いだろう。
だが魁は、そんな滝にもがっかりした様子はない。
「うん、いいじゃないか」
魁は元々自然が好きなので、小さな滝でも好意的な感想になる。
魁は微笑みを浮かべつつ周囲の様子を見回していたが、滝口を見上げて閉口した。
滝口に老婆
いつのまにやら、現れていた。
崖の上から魁を見下ろし、相変わらず薄気味悪い笑みを浮かべている。
害は無いのだが、視界に入るのは非常に不快である。
例えるなら――
三角コーナーのコバエ。
トイレに湧く三角の羽虫。
生ゴミに群がるゴキブリ。
その存在を感知できないことも不快さを倍増させていた。
もう少し滝を眺めるつもりだったが、老婆の出現により、この場に留まる意欲が失せた。
魁は滝を後にし、御神木へ向かうことにした。
◆◆◆
――滝から"本道"まで戻り、御神木目指して移動を開始。
女将から聞いた通り、静まり返る温泉街を抜けた先に細い道があった。
その道を進むと高さ三m程のやや小ぶりな鳥居があり、その先の森に御神木がある、とのことだった。
魁が鳥居をくぐると、重苦しい森の澱みが薄れ、周囲の空気が軽くなった。
「さすがに、祀られてるだけあるな。
この一帯は清浄に保たれてるらしい」
上位存在の加護か、信仰の力か。
結界のようなもので覆われていた。
鳥居から奥に進み、なだらかな起伏の森を抜けた先。
目指す御神木があった。
魁は、やや離れた位置から御神木の全体像を仰ぎ見た。
御神木という言葉の通り、直径一m以上ある幹には紙垂の下がった注連縄が巻かれている。
太さからして、樹齢数百年というのは事実だろう。
魁は、手を合わせて目を閉じ、長い祈りを捧げた。
祈りを終え、御神木へ一礼。
続けて、辺りを見回す。
御神木の周囲をぐるりと歩いてみたが、老婆の姿は無かった。
清浄に保たれたこの場所には、近づけないのかもしれない。
だがここを離れれば、またどこからともなく姿を現すはずである。
「仕方ない……行くか」
魁は御神木に背を向け、安らぎの空間を後にした。
◆◆◆
――次に向かったのは、岩場。
ここは滝とは異なり、観光地として道が整備されていない。
到着まで、かなり時間がかかってしまった。
辺りに露出している岩の組成は主に花崗岩で、大部分が白みがかった岩石だった。
風化して真砂土化した部分もあった。
一帯は、そう言った岩や斜面が続いているだけの場所だったが――
「なかなかいい感じの場所だな。一通り回ってみるか」
魁は気に入ったらしく、すぐさま辺りの観察を開始した。
――熱心に辺りの観察を続ける魁。
ふと気付けば、いつのまにか旅館に戻る予定の時間を過ぎていた。
「ああ、もうこんな時間か。もう帰らないとな……」
もう、夕食前に温泉で汗を流す時間はなさそうだった。
そして、これ以上遅れると夕食にも間に合わなくなる。
名残惜しいが仕方がない。
後ろ髪を引かれる思いで、魁は岩場を後にした。
――旅館に帰り着いたが、やはり、ゆっくり温泉で汗を流す時間は無かった。
手早く内風呂でシャワーを浴び、浴衣に着替えて食堂へ向かった。
食堂内へ入って最初に目に入ったもの――
食堂の隅
不気味に笑う老婆
遂に食堂にまで現れた。
そのうち、部屋の中にまで現れるかもしれない。
「あら、赤神様。どうかなさいました?」
魁の様子を窺うように、声を掛ける女将。
「いえ……今日の朝、不快な夢を見たなあと。今それを思い出しまして」
苦笑を返し、ごまかした。
実際に今日は不快な夢を見たので、嘘ではない。
「まあ……お気の毒に…… 夢見が悪いと、なんだか損をした気がしますものね」
女将は気遣うように魁を見て頷く。
「まったくです。折角の旅行ですし、今日の夜は勘弁してほしいところですね」
女将には当たり障りのない内容と苦笑で返答した。
老婆は相変わらず食堂の隅に身を潜め、涎を垂らしながら笑っている。
もう食事をするような気分ではなくなった。
味もよくわからないまま無理やり腹の中に料理を詰め込み、
「ごちそうさまでした――」
女将には少々申し訳ないとは思ったが、そそくさと食堂を後にした。
――部屋に戻った魁。
精神的なものだろうが、何やら夕食前よりも体が重い。
「はあ……なんだか疲れた……」
もう、温泉に入ってさっさと寝ることにした。
のろのろと大浴場へ向かい、暖簾をくぐると――
脱衣所の暗がりに 老婆
食堂の次は、脱衣所にまで。
「またか……」
一般人は恐怖に慄くところだろう。
だが魁はもう、うんざりしていた。
魁は手早く服を脱ぎ、老婆を一瞥して浴室へ。
来るなら来いと腹を括っていたが、どういうワケか浴室内にまでは入ってこなかった。
――浴室から脱衣所に戻ったとき、老婆の姿は消えていた。
大浴場から部屋に戻る際の廊下にも、老婆の姿はなかった。
だが、部屋に入るとそこに――
というワケでもなかった。
「この不快感、久々だな。最低の気分だ」
【特殊調査員】を取得た頃は、低級の【妖】をスルーするのに慣れていなかったため、何度となく、今回のようにストーキングされていたものだ。
ただ、低級の【妖】の大部分は、"ただ見えるだけ"程度の"力"しか持たない。
音を出せる個体は少なく、物体に影響を与えられる個体は更に少ない。
つまり、こういった場合における最適解は、布団に入って寝てしまうことだ。
その夜は、何者かが部屋を訪れることはなく、昨夜のように不快な夢を見ることもなかった。




