そうてんい
熱機関。
高温の物体が持つエネルギーの一部を仕事W、つまり力学的エネルギーに変える装置を熱機関という。
初期の熱機関といえば、蒸気機関が考えられるだろう。
ただし、高温の物体から熱量Qを与えた場合、Qが全て仕事になるわけではない。
Q≠W
必ず、低温源に一部の熱量Q´が捨てられる。
熱量Qは一部を仕事に変え、一部の熱を捨てることとなる。
これが、エネルギーを失うことなく永遠に仕事をするのであれば、それを第一永久機関という。
あるいは、熱を全て仕事に変えることができるのであれば、それを第二永久機関という。
無論、これらは熱力学の法則の見地から実在不可能な機関である。
つぶやいてはみたものの、与えられたピースから次の話が組み立てられただけで、私はこの話題が示唆するものが果たして何なのか分からずにいた。
「アレグザンドラ。ハイスクール程度の講義をどうもありがとう。なんとなく、言いたいことはおぼろげに見えてきた気がするけれど、よく分からない――というより、認めたくないのかもしれない」
アレグザンドラは紅茶を啜った。
「で、あるならば、すでに理解しているに等しい。私は比ゆとして熱力学の上澄みを提示した。
共感魔術の話を覚えているかね?」
私の喉が嫌な音を立てる。
「ええ。もし比ゆとして、推測するなら。
あの世界は閉鎖系A。
私たちの世界を閉鎖系Bと考えれば、二つの世界をつなぐ『境界』が槍であり、同時に私たち自身。そしてあのゲームね」
「ふむ。続けて」
「系と系を隔てる境界について考えるわ。
面積Cを持つ仮想の境界であり、同時に断熱壁と透熱壁の性質を持つ。そして、可動壁でもある。
あの世界にぶち込まれた私たちは、あの世界において、高速に動く原子だったと考えればよいのかしら?」
ふと、『相転移』について考える。
「私たち自身については、私たち自身が、一つの開放系であると考えられる。
『相転移』の現象が比ゆとして分かりやすいと思う。
系の温度が変われば、系の状態、性質は変わるわ。
例えば水。
系のパラメータ温度や圧力によって、その各状態である相は、氷である固相、水である液相、気体である気相に変化する」
この系の状態変化を『相転移』というわけだが、アレグザンドラはにやにやとしている。腹立たしさを超えて、私はむしろ底なし沼に落ちていくような気がした。
「相転移は、パラメータによりどう変化するか、Y軸に圧力、X軸に温度を取り、相図を描けるわ。それぞれの相である水、蒸気、氷が共存することの可能なパラメータ……境界が交わるところを『三重点』というけれど、これを過ぎれば、各相に相転移してしまう」
例えば、と私は唇を舌でなぞった。
急速に唇が乾いていって、ひび割れそうだった。
「心霊主義では、人間は『魂』『肉体』『霊体』の三つの部分から成り立っているというわね。
魂は人間を人間足らしめる思考する部分であり、非物質とされる。これは不死であり、人は何度も転生するというわね。
肉体は、まあそのままね。魂をおさめる物質とされるわ。
霊体は、魂と肉体をつなぐものとされる。
生きている人間は、この三つがぴったり重なりあっている状態とされるわ。
つまり、霊体は、肉体と同じ形をしていると考えられている。
肉体が滅ぶ――死ねば、魂を霊体が包み、これを視認した場合、『霊』と呼称するわね」
指を組み替えた。何度も何度も、意味もなく組み替えた。
「生きているということは、三つの相が重なっているということ。
私たちは、B系においては三重点にあった。
A系にぶちこまれても、三重点にあった。
肉体ごと転送されたのか、それとも魂と霊体だけによる転送なのか。
これが、非物質のみによる転送であるとすれば、魂と霊体が投げ込まれ、現地である系Aで文字通り受肉したのかな。
でも、系Aで得た肉体が滅べば、そこで『死』ぬ。
そして、問われる。
系Bに属したまま、新たに受肉して繰り返すか。
あるいは、系Aの一部になるか。
名前を失わなければ、系Bとはつながりが途切れない」
推理というより、妄想としかいいようがない。
「あの世界で、私たちは高速の平均速度を持つ原子であり、系Bへの境界でもあったと考えれば――系Aへの内部エネルギーの増加分だけ、私たちの元の世界に仕事がなされた――つまり、魔王や勇者の発生によって、その結果は、私たちの元の世界に影響を及ぼした――」
そろそろ顔面を覆ってもいいころだ。
アレグザンドラはミルクと砂糖を紅茶に落とす。
「このミルクと砂糖の分子は、今紅茶に拡散内部に拡散している。そしてこの紅茶は開放系だ。
温度は室温に拡散していく。
この香り高いフレーバーも、室内に分子が拡散していく。
これは、不可逆変化だ。
決して元には戻らない。
もし、拡散した分子をひとつひとつポンプで戻したとしても。
ポンプの状態は以前の状態と異なる。
元には戻らない。
いいかね、エネルギーの永久機関など存在しえぬ。
これが、『彼ら』に起きて、君に起こらなかったことだよ」
私は、耐え切れず右手で顔面を覆った。
左腕は動かない。
なぜなら、私の左腕は――もはや、ない。代わりに、私は『盾』を得て、自らを孤立系とした。
「戻らない。はっきり言うのね。では、貴女は私に何の選択を迫ったの? それは私に有利なもの?
私の望みは、ひとつしかない。
大輔を返してほしい。
ジャンに会いたい。
八王子君は?
桐島さんは?
皆、は?
それしかない。
それしか望まない。
何故。
どうして。
何故私たちだったの?
槍とは何なの?
どうして?」
どうして、何故、と問うて、答えが得られるのか。
そもそも、バーロウ家とは、何なのか。
分からない。
どうしようもない。
ただ、返してほしい。その選択以外、私にとって『無意味』でしかない。
アレグザンドラは頭をふった。
「『蜂の腰』は世界の中庸だ。どこでもあり、どこでもない。系の境界。
だが、神も悪魔も、系を観測するものだ。
彼らは外にいる。彼らは永久機関であると考えられる。
ゆえに、計算できない。そして我々の世界では実在不可能ゆえに、この世界に存在しない。
知ることもできない。
ただし、近づくことはできるかもしれない。
かつてソロモンという男が、神へいたる小径と逆の階層に下りていき、悪魔の叡智を得たという。
逆セフィロトを辿り、砂時計をひっくり返すという『ずる』をして、神の階層へと近づいたのだ。
しかし、彼は人のままであった。
あるいは、神へいたる最初の相は、彼より剥離したのかもしれぬ。ならば、その影は現世に残り、我々には観測できない『何か』が外界へ至ったのかもしれぬ。
その時、我々はもはやそれを観測できないゆえに知ることはできない。
貴女が望むのであれば、その最初の一歩の扉が、この『蜂の腰』からは伸びている。
ただし、私はその先を知らぬ。
なぜなら、私は留まった者だからね」
「クーリングオフのきかない怪しい商品の押し売りね。効果も効用も知らないけれど、選べって? それこそ今度は帰ってこれないかもしれないじゃない」
私はばかばかしさに笑った。
「ならば、影であるソロモン程度の叡智をちょうだいな。私はもうこれ以上どこにも行かない。『私』は『私』であることを選択する。
だから、どこにも行かなかった『留まった』貴方たち程度の叡智を要求するわ。
バーロウ家。槍の守護者、つまり――現世に散逸する叡智の番人といったところ?」
取り扱い注意の槍、得たいの知れぬ本。
それらを所持しているのは『バーロウ家』だ。
何より、私はひとつの希望を持っていた。
もしかすると、いいえ、きっと。




