おわり
そう。
システムの提示する選択に対し、『諦めなかった』者がいる。
あるいは、『名前』を失わずにいた者がいる。
彼らは、紅茶に落とされたミルクであり、砂糖だ。
ただし、包装されたままの状態だったら、全ては決して拡散しない。
更には――
私は、すっとアレクサンドラの手元を指差した。
「八王子夜音をジャックしたのは貴女? あの時――ジャンは、『本』に吸い込まれたわ」
もし、室内に拡散した分子を、エネルギーを、見えざる何かを、ひとつひとつポンプで戻せたとしたら?
不可逆変化。
元のとおりにはならない。
でも、
ああ、でも。
私はたった一つの希望に縋ってもいいはずだ。
そうしなければ、何のために――何のために、ここに二度目に来た/繰り返したのか分からない?
本にまつわる貴方たちのノウハウを教えてとの流れになるはずが、己の不可解な思考に瞠目した私に、アレグザンドラはやはり笑った。
「そのとおり! 貴女は以前、同じような結論にいたり、取引した。この『本』は、怪異を収めておく蔵のようなものだ。我々は、槍やこういった本を、『ギフト』と呼んでいる。本は複数あり、いずれにも『番人』がついている」
いつの間にか、彼女の手には一冊の黒い革表紙の本が握られており、ぱらりと風もないのにめくれた。
「――ビショップ」
彼女の背後に、暗紅色の法衣を着た『何か』が現れる。
「これが『番人』だ。貴女の国でいう、式のようなものだね。使い魔と翻訳してもいい。この『本』を、実は仁王大輔も『持っていた』」
ひゅっと息を呑んだ私に、アレグザンドラは畳み掛ける。
「今回、前回含め、事態がややこしくなったのは、二つの『ギフト』とそれにまつわる『怪異』が絡んだためだ。仁王大輔の所持していた『本』を、前回貴女は継承した――はずだった」
さて、説明が長くなるが、と彼女は断り、ビショップに給仕させる。熱い紅茶を飲み、一息つくと話を続けた。
「貴女が今所持している『本』は、『主殺しの番人』がついている特殊なものだ。つまり、ありていに言ってだね。その番人は、『前所有者』が『補填』される」
ビショップは私にも給仕するが、私は茶を啜る余裕もなかった。
「ちょっと――待って。なんで大輔が? え?」
「『ギフト』は近親者で継承されることが多いが、消失した場合、無作為に投下されることがある。彼の継承は後者だね。仁王大輔が選ばれた理由は分からない。エネルギーの乱雑さは、『不確定』だとだけいっておこう」
「そ、う。ええと、つまり、え? その、『本』の所有者は、死んだら、その本に――閉じ込められ、『番人』に補填される?」
「そうだ。『本』の前所有者である仁王大輔は、その死亡に伴い、番人として補填され、新たに『本』は次の所有者に継承されるはずだった。
しかし、ここに『槍』が絡んだ。
B系における彼は『死んだ』。しかしA系で、彼は『生きていた』。不完全ながらね。
所有権は宙ぶらりん、補填も宙ぶらりん、『本』のイベントは強制的に『主殺し』の儀式を引き起こすはずが、無期限凍結だ。
事態は複雑化した」
ふとアレグザンドラは嘆息した。
「貴女は、前回、『本』の所有者になるべくしてなった。いつか、必ず前所有者を取り戻すと決意して、B系に帰還した。
前所有者にして、本来『番人』にスライドしていなければならなかった仁王大輔がどこにいるか、その行方は分からなかった」
「そして、今回事件が起きた――」
「我々は目標を捕捉した。貴女は再びA系に戻り、儀式をやり遂げた。
つまり、『主殺しの番人』を調伏したのだ。
あれは便宜上『メフィスト』と呼ばれている。
本来の形ではないかもしれないが、『槍』の世界において、擬似的に、『主殺しの番人』とのデュエルは決行され、貴女は勝利した。
制限時間内に、滅ぼせば勝ち、負ければ貴女は代わりに『番人』として補填されるはずだった」
ぞっとした。
私は、『槍』と同時に、『本』のデスゲームを同時進行していたというのだ。
「さて。私は、貴女に『本』を渡した。貴女は、すでに得ているはずだ。ただし、本質は変容する。元のままではない。不可逆変化ゆえに、それは納得済みとは思うがね」
動かぬはずの左腕、その先に本がある。
私は気がつくと泣いていた。
本を抱きしめた。
『名』を呼んだ。
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ep.現実世界
中庸の世界はやがて緩やかに崩壊しながら、私はやがて白い病室で目を覚ました。
あの世界で受けた暴力の跡は、私の身体に深刻なダメージを与えていた。B系世界に、私はA系世界で得た姿のままに戻ってきてしまったのだ。
正直大変スプラッタなことになり、リハビリだけでかなりの月日を費やすこととなった。
バーロウ家からの後押しもあり、FBIは円満に退職した。
もはや、元のままではいられなかった。
連続殺人事件については、非常にやるせない結末だった。
犯人は『複数人』によるものだった。
『槍』の想念――あの青白い顔をしたステンドグラスの男の複製コピーのような思想に感染した近親者の犯行だったのだ。死体に描かれていた象形文字の署名は、A系世界で見た文字でもあり、あの男の署名でもあった。
私は、後に彼の履歴を手にし、非常に驚くことになる。
世界大戦の折、イギリス軍がブレッチェリーに本拠を置いた暗号解読機関の一員であったのだ。
当時ドイツ軍がUボートで国外に運び出した『槍』の行方を、彼がどうやってつきとめたのか詳細は不明である。
だが、イギリス海軍が当時傍受したドイツ軍の暗号を元に、その潜水艦を待ち伏せの上、撃沈させたことは記録で明らかになっている。
その潜水艦が、何を運んでいたのか、イギリス海軍は知らなかった。
男も知る由もなかった筈だが、彼はレックダイブ(難破船潜水)により、沈んだ槍を引き上げた。
槍が男を呼んだのか。男が槍を執念で見つけ出したのか。
それは誰にも分からない。
分からなくても、構わない。
多くを失ったが、構わない。
私は、本当に大事なものは取り戻せた。
私の『本』には、『番人』が三体いる。メフィストフェレス、ファウストゥス、グレートヒェン。バーロウ家が便宜的にそう呼び習わしているものだ。
メフィストフェレスはさることながら、ファウストゥス、グレートヒェンに補填された人物は、私の知る人だった。
驚きとともに、私は涙の再会と怒りの鉄拳を食らわすことになるが、それはまた機会があれば話そう。
これで私の話は終わりだ。
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ep. バーロウ家
「これでよかったのかね?」
「ああ。世話をかけたね」
「しかし、名乗らずじまいかね? お前は別に『私』にジャックされていたわけでもあるまいに。内部から内部へ侵入しただけだろう」
「締め出されていたからね。僕は彼女に嫌われているし、まあ、指揮系統上、バーロウは誰がバーロウか、互いに知る必要もない」
「ずいぶん不義理な男だな。しかし、これが最初でもないし、最後でもない。ギフトは投下され続ける。まったく、宇宙の贈り物という奴は実に厄介極まりない」
「ロンギヌス。長きもの。攪拌するもの。槍は宇宙から飛来した。隕鉄を含んでいる。あれは多様性を攪拌するものだというのが我々の解釈だ。バーロウもまた、その多様性のひとつに過ぎない。――いずれ、来るべき『対話』に備えて」
我々は回収し、管理し、そして進んでいくだけなのだ。
そう、彼は呟き、『蜂の腰』を辞去した。
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ep. 蜂の腰へ再び回想
動かぬはずの左腕、その先に本がある。
私は気がつくと泣いていた。
本を抱きしめた。
『名』を呼んだ。
そうしたら、奇跡が起きた。
『彼』は戸惑ったような、呆れたような、微妙な顔つきをしていた。
「――馬鹿な人だ。所有権など放棄しておけばよかった。そうすれば逃げられたのに」
何かいおうと思った。
でも、声が出なかった。
堤防は決壊した。目の前が見えない。
ぬぐってもぬぐっても後から後から熱い滴がこぼれて来て、視界がよく見通せない。
喉が痛い。
声が出せない。
地面はぐにゃぐにゃして、立ち上がることもできない。
ちゃんと、そこにいるんだよね?
もう、消えたりしないよね?
大輔じゃないのかもしれない。彼はもうジャンだ。
お願い、もう、二度と。
二度と、失いたくない。
「さて、申し訳ないが、そろそろ時間だ。新たな『所有者』よ、貴女はその資質を我々に問われていた。貴女は神にも悪魔にもならぬといった。我々の叡智をよこせといった。ゆえに我々は歓迎しよう。新たなバーロウの一員として」
それから、とアレグザンドラは付け足す。
「そこのへたれ、泣いている女がいたら、抱きしめるくらいしたらどうかね? 別に触れても罪ではあるまいに」
息を呑む音がして、本当におずおずと、おっかなびっくり様子を伺うように、その手が私に触れた。
「――さつきさん。すみません。もう私は元の私じゃないし、貴女が取り戻そうとしてくれたものじゃない。こんなこと、本来巻き込むべきじゃなかった。貴女の口癖が『ごめんなさい』になってしまって、見ていて辛かった。私には、なんの自由もなくて、助けることもできなかった。私は、何も望むべきじゃなかった」
でも、と強い力で抱きすくめられる。
「――でも、それ以上に会いたかった」
ずっと、ずっと、名乗りたかった。そう言い彼は万力のような力で抱き締めた。
多分彼は静かに泣いていた。
私は、子供にかえったみたいに、大声で泣いた。
ごめんなさい、と頭を垂れた。暴力が怖かった。痛みが怖かった。殺されそうになって、裏切られて、もうこれ以上は耐えられなくて。
そのことを、彼は知っていてくれた。私が悲鳴を上げていたのを知っていてくれた。
怖かった。辛かった。憎かった。二度目は耐えられないと思った。
でも、もっと怖かった。もっと耐えられなかった。
二度と会えないことが怖かった。耐えられるはずもなかった。
置いてきぼりになんてしない。絶対取り戻す。そう、一人だけ生還した十八歳の私は決意した。
全部捧げてもいいと思った。
私は――ようやく取り戻したのだ。
とても、言葉にできない。言葉にならない。
好きだ。彼が好きだ。貴方がとても好きだ。これが愛でなければ、私は他に愛など知らない。
無論、きれいな気持ちのままだけではいられなかった。
多くの苦しみを思い出す。私を打ち据えた人々の顔を思い出す。
彼らを憎んだこともあった。
憎悪で身を滅ぼすかとも思った。
あるいは、恐怖に己が保たないとすら、私は自らを押さえつけた。
いつか来るやもしれない終焉を畏れないでもない。彼と同じように人ではなくなる日が来るのかもしれない。
でも今は。
愚にもつかない、と思いながら願わずにいられない。
この一瞬の時よ。
どうか、今だけは。
私は言葉にならず、静かに魂を震わせ続けた。
終わりました。
ありがとうございました。
尻切れトンボ感が否めませんが、完結です。
この作品が未熟ながらも完結マークをつけられましたのは、ご感想くださった皆さんのおかげです。
返信恐怖症になっておりますため、全てへの返信は控えさせていただいていますが、一件一件大切に拝見させていただき、ところどころ物語を修正させていただきました。
作者一人の力では、とても完結まで気力がもたなかったと思います。
お気に入りしてくださった方、評価をつけてくださった方、皆さんのおかげです。
本当にありがとうございました。
少し休んで、色々考えてみたいと思います。
最後に、ここまでお付き合いくださった方へ、もう一度御礼言わせてください。
ありがとうございました!
よろしければ、ご感想お待ちしております。
なお、続きは補足事項の設定集です。裏設定やおふざけ満載なので、興味のある方だけご覧いただければ幸甚です。
蛇足:大変恐れ多いのですが、ふんばりどころの執筆中BGM、イメージソングはナ○ムジカ ta-l/ilaでした。本当にいい曲ですね。




