ああ、そろもんよ
「――佐々木さん」
礼拝堂に、もう一人の少女の声が響いた。
桐島聖涙だった。
灰を十指で掻き集め、どうにもならぬと拳を叩きつけていた私は、呆然と彼女を見上げる。
彼女も、酷い姿だった。
文字通り、はり付けにされたのだ。
あちこち負傷した状態で、よろよろと歩いて来たのだろう、気がつけば私のすぐ傍にいた。
彼女は、八王子夜音の方に視線を巡らせ、再び私の手元を見た。
「終わった、んだ」
ぽつり、とこぼした言葉は、冷気の満ちる礼拝堂に拡散した。わけの分からない状況だろうに、彼女なりに悟るものがあったようだ。
「なんか、多分、分かってた。私、もう死んでいるのね」
私は悲鳴を飲み込む。彼女は、諦めなかった。諦めなかったけれど、あまりにも『長すぎた』。
「身体、もう現実にはないんだよね。なんだろう、そうか」
彼女は、負傷した腕をもう片方の手で握り締めていた。
その腕に、青白い燐光が浮かぶ。
いや、腕だけじゃない。
身体中が、燃えていた。
あまりにも冷たく、青く、静かに、燃え上がる。
死者の炎――
「エミリオがさ、いってた。あいつ、おっかしいんだよ。佐々木さんに多分酷いことしたんだよね。あいつが悪い。でもさ。あいつさ、私の前で泣くの。こんなの嫌だ、消えたくない、消えたくないって。だんだん薄れていく、どちらが自分か分からなくなるって。自分が誰で、家族も友達も分からなくなる、記憶も飛ぶ、なかったことになる。消えたくないって、ぶるぶる震えながら泣いてた。傲慢男で売ってますって感じだったくせに、ぼろぼろ泣くからさ、最初ドン引いた。でも、ほっとけなかった。ほっとけなかったの。――だけど、結局消えちゃった」
消えた、とは、『死んだ』という意味と同義ではない。
恐らく、元の人格の消失を指すのだろう。
「私、ムキになってがんばったんだよ。がんばったけれど――正直しんどかった。疲れたな」
視線を伏せて、桐島聖涙は、笑おうとしたのだろう、でもそれも不恰好に口の端が歪んだだけだった。
「私、消えるんだね。今度こそ、本当に消えるのか。もう休んでもいいんだね」
だけど、とつなぐその顔面がくしゃりと歪む。
「やっぱり、消えたくないよぉ。おかあさんに、会いたいっ」
手のひらを眼前に掲げ、青く燃え尽きていく己の指に、絶望の色をその瞳に宿して、彼女は悲鳴のような叫びを最期に、あっという間に、それこそ本当にあっけなく消えてしまった。
私は、空中に行き場のない指先をさまよわせ、結局彼女の衣服の端をつかむことすらできなかった。
「――何これ」
何なのだ、これは。
酷い。
惨い。
もはや言葉にできない。
これでは救いがない。
何の救いもないではないか。
ああ、分かってた。
失われたものは、戻ってこない。
失われたものが、あり続けたことこそが、悲劇だったのだ。
だが、理性が納得しても、感情はついてこない。
どうして、何故、と問わずにはいられない。
統合前の私であれば、思考することはできなかっただろう。
しかし、現在の私は、それを放棄できるほど無垢ではいられなかった。
多分、許容範囲を超えてしまった。
振り切れてしまったのだ。
振り切れた人間に訪れるのは、喜怒哀楽の感情の麻痺だ。
もう、苦しい、辛いと思うことさえ、私のコップは溢れてしまい、これ以上の感情の注ぎ足しは不可能だった。
八王子夜音――バーロウ家の『何者か』を見やる。
彼は頷いた。
「間もなく、この世界と我々の世界はリンクを切るだろう。槍が二つの世界をつないでいたが、すでに回収した。我々も、引き戻されることになる」
「教えて。この世界は、偽物? それとも本物なの?」
何の意味もない問いだ。
しかし、問わずにはいられなかった。
「君は、すでに答えを出しただろう。究極、我々には、本物も偽物も区別などつかないと」
はっと息を呑んだ私に、彼は告げた。
「それはそれのみによって存在するのではない。それがあるから、かれがある。かれがありて、それがある。どちらが実像で虚像か、あるいはどちらも更に存在する『実像』の虚像か。己を真とする者ですら、全てイデア(真理)の影かも知れぬ。あるいは、たゆたうスープに実在など存在せぬかもしれぬ。ただそこに可能性が揺らいでいるに過ぎぬかもしれぬ。一体、誰の視点によれば何が真で何が偽かね。真偽の区別がつくものがいるとしたら、それこそ『神』以外にありえぬ。――時間だ」
詭弁だ、となじる前に、私は揺らいだ。
揺らぎ、この世界から消えた。
私は、概念としての『槍』の姿を見た。
宇宙に浮かぶ、二つの地球。
槍が、いいえ、紐? 何かが二つをつないでいる。
でも、その『長いもの』は、途切れた。二つの地球は互いに離れていく。
どちらが真でどちらが偽か。
あの世界を、どうして偽物と断じることができよう。
あるいは、どちらも影かもしれぬというのに。
そう、究極私たちは、誰も本物と偽物を区別などできない。あの世界はきっと続いていく。私たちの世界が続く限りは、あの世界もまた、終末に向けて疾走していくよりないのだ。
自分がどこにいるのかも分からない浮遊感とともに、宇宙を見下ろすなどというとても信じがたい光景を目にしながら、そこにはもう一人の私以外の人物がいた。
「ようこそ。石の名前を持つものよ。君がここ――『蜂の腰』に来るのは二回目だな」
気がつけば、私は赤と黒と金の色調で統一された部屋にいた。
世界は一瞬にして摩り替わった。
グランドファーザーロックが正面で鈍い金色の振り子を規則正しく揺らしている。
シノワズリ趣味のテーブルに、白い陶磁器の茶器が準備され、温かな湯気で大気を湿らせている。
私はもはや何が起きても驚かぬと腹をくくった。
「ずいぶん長いことお会いしていないかのようね。アレグザンドラ・『バーロウ』」
皮肉を込めて強調した姓を彼女は優雅に苦笑してかわし、否定することもなく、「さあ、席についてくれ」と促した。
私は誘いを断らなかった。
「まずは、おめでとう。君はやり遂げた。パーフェクトだ。実にすばらしい。バーロウ家一同、君に惜しみない賞賛を贈るよ」
それこそ皮肉か。
まずはこの熱いお茶を、彼女にぶっかけたらどうなるか。
妄想だけで、私は三杯の米をおかわりできそうだった。
「『蜂の腰』に一度偶然彷徨い込む者はいても、二回目来るとなると、これはもう『意図的』なもの以外何ものでもない」
さあ、と彼女は笑った。
まるで悪魔のような笑みだった。
アレグザンドラ・バーロウ。
恐らく、末端であるはずもない。この口ぶり、本家の者か? あるいは、当主とやらか。
「さあ、取引だ。
バベルの塔が、一番上の階層に通じていた。
ソロモンの王は逆階層まで降りていって、それを逆回転させようと思った。
しかし、サン・ジェルマンは失敗した。
悪魔の中には全ての叡智を授けてくれるものがいる。
世界の境目、中庸である『蜂の腰』にいる者が、神の待ちたもう上の階層へ行くか、それとも悪魔の待つ下へ降りて行くか……
おめでとう、君は選択する権利を勝ち取った。
さあ、選ぶといい」
わけわかんねえよ、と私は本気で茶をぶっかけるべく戦闘準備に入った。
あと数話で終わります。




