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あなたは?

「待って」


 柱廊を山形のアーチが連なりに描き、床は総大理石で、ガラス窓から陽光が降り注いでいる。

 しかし、私にはどうにも薄暗く感じられた。

 人工的な電灯の明かりが一切なく、自然光だけのせいだ。

 薄暗がりに、ジャンが振り向き立ち止まる。


「なんですか、あたしも忙しいですがね」

「ご、ごめんなさい。あの、何か様子が変だったので――」

 

 大丈夫ですか、との言葉を飲み込む。この言葉は、使い方がとても難しい。

 大丈夫じゃない人間に、大丈夫かと尋ねる生産性など、ほとんど問うた側の精神安定剤と満足以外の何者でもないからだ。

 だが、私は貴方を気にかけています、と意思表明されることに、わずらわしさと同時に嬉しいと思う気持ちも、矛盾して同時に持ちえることができる。

 私は、どうもこのタイミングとやらがうまく読めないでいる。

 言葉を続けることができなかった私に、助け舟を出したのは、彼の年の功であろう。


「すみませんね、あたしもどうにも神経質になっているようですね」

「いえ、現状が現状ですし、ファーデルラントは?」

「引渡し要求が激しいですねえ」


 ですよね。

 私はうなだれた。

 

「さつきさん」


 不意に、ジャンの声音が酷く硬質さを帯びた。

 驚き、顔面をはじくように上げた私に、彼は普段の人を食ったような表情を暗がりに見えなくして、


「人間は自由の刑に処せられている、と言います」


 は? いきなりの言葉に面食らう。


「ですが、その特権、本当に享受できるのは、この世界で一握りだけです。貴女は、数少ない特権を教授する側です。

 自由に考え、動き、喋ることができる。

 諦めなかった者だけが――」


 そこでゆっくりと彼は視線をめぐらし、すとん、と表情が抜け落ちた。

 まるで、今まで被っていた仮面を剥いだかのように、『素』の表情になった。


「私は、貴女に謝らなければならない。この世界、地獄に叩き落した一因は、私にあります。

 私は、自分の動ける枠内で少しでも貴女を」


 そこまで言いかけて、ジャンは口元を抑えた。

 空気が止まった。


 彼は吐血していた。

 それも、指の隙間から、笑い声が漏れている。


「はは、役割を逸脱した途端、史実どおりと、」


 私は阿呆みたいに突っ立っていた。

 ジャンが倒れる。

 私は駆け寄ることもできない。

 ただ立ち尽くしていた。

 氷の彫像になったみたいな気がする。

 頭の奥、がんがんと何かが鳴っている。

 

「気を、つけなさい。この世界、呑まれ、ないよ……に……選択、間違え……」


 い、嫌だ。

 私はようやく動いた。

 彼のそばに駆け寄り、衣服を握り締める。 


「ジャン、待ってよ。いきなりすぎるよ、何、わけが……ね、ねえ、返事、してよ」

 

 がちがちと身体が震えてくる。

 この世界での、庇護者は、間違いなくジャンだった。

 あの最悪の地獄のどん底で、どんな思惟があれ、少なくとも救い出してくれたのは、この男だったのだ。

 生きるのに、精一杯で、私はこの男に、きちんと感謝を伝えたことがあっただろうか?

 急速に失われようとするその場面になって、私は自分自身に向き合わされた。

 そうすると、指先まで冷たくなって、身体の軸がぶれてきて、立ち上がることもできなくなってしまった。

 助けを呼ばなければ、と思うほどに、声すら出なくなってしまう。

 かつての恐怖体験がフラッシュバックして、私はただ震えることしかできずにいた。

 助けて。

 何度願っただろう。

 誰か助けて。

 そして何度無視されただろう。

 ジャンを助けて。

 誰も答えない。

 そのはずだった。


「そいつ、死んだの?」


 透明で、喜怒哀楽すらどこかに置き忘れたようなその声。

 私は振り仰ぎ、瞠目した。


 桐島聖涙きりしまあくあ

 

 彼女だった。

 頬は痛々しいほどにこけ、目ばかり爛々と強い光を放つ。


「ど、どしてここに?」

「ブルゴーヌに備えて、ファーデルラントとレジーナが密約を結んだから」


 彼女はあっさり答え、すたすたと近くまで寄ってきた。


「ねえ、佐々木さん。貴女は何回目?」


 そう、しゃがみこんで彼女は尋ねた。






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