挿話:槍の遍歴について
この話はフィクションです。
現実の人物、事件、国とは一切関係ありません。
また、侮辱する意図もありません。
――一九××年 オーストリア ある展示物の前
後に世界大戦におけるドイツの台頭の嚆矢となる、黒髪の青年が、硝子越しにある展示物に魅入っている。
彼は絵描きを目指して、後に挫折し、やがては政治家へと転身することとなる。
その展示物は、槍の形をしている……
――一九四二年 世界大戦時、イギリス、ある暗号解析係員
エニグマ――サメ――
ブレッチェリー・パーク。
ロンドンより北八十キロに広大な土地を購入し開設された巨大な暗号解析所施設。
その第八号棟は、ドイツ海軍暗号解析所である。
『彼』は、八号棟の暗号解析係員だった。
「おい、海軍のお偉いさん方が来てるらしいぞ」
同僚に声をかけられるのと同時に、くわえ煙草の上司が彼の名を呼んだ。
「――来てくれ」
上の方々が、現場の声を聞きたいそうだ。そう告げられる。
彼は色鉛筆を放り出し、二月以来ブラックアウトを起こして、つまり全くドイツ海軍の暗号が解読できなくなった為にうなぎのぼりする連合軍側船舶のグラフを一瞥して、上司の後についていった。
――ナッシング。
ナマの情報はあっても、解析一つできやしない。
現場にいても、やることなどなかった。
扉の向こうには、海軍将校のお偉方が並んでいて、じろりと彼に視線を投げた。
無関心で慇懃な視線だ。
――やれやれ、どうなることやら。
上司はテーブルを挟んだ右手側から紹介して行く。
「アーロン・バーロウ卿」
上司がなぜか、一番若いイギリス人の男を最初に紹介した。
何故だろう。
壮年、もしくは年寄りの海千山千の将校達の中で、何故か控えめに沈黙する最も若輩のバーロウ卿こそが重厚に構えている気がする。
何なのだろう、これは。
随分若いのに、どうにも印象的だ。
考え込む内に、紹介はいつの間にかアメリカ側も終わりかけ、彼はほとんど聞き逃してしまった。
右手サイドは、訪英しているアメリカ海軍将校だった。
一番年嵩のアメリカ側将校が重たい口を開いた。
「あー、それで、我々の輸送船団は無事海域を抜けられるという保障はいただけるのですかな?
あなた方のエニグマ暗号解読はどうなっとるのですか?
二月から、ドイツのUボートに沈められた連合軍側船舶は無視するにはあまりに大きすぎる数字ですが」
対するイギリス側の回答は曖昧を極めた。
つまり、可能性はあるが、断言しかねる、というのがその答えなのだ。
紛糾する英米の対立に、米側の将校が口を開いた。
「エニグマだの、暗号だの、私にはよくわからないんだが、君、専門家かね?」
いきなり話をふられて、彼は目を白黒させた。
「私はどうにも、暗号とやらは専門外だから、ちょっと何がどう問題なのか、簡単に説明してくれんかね?」
簡単に説明してくれと言われても、と思わず目をうろうろさせると、歳若いバーロウ卿が「構わない」というかのように小さく頷き、他の将校は何も言わなかったので、彼は妙に落ち着いて、
「では、僭越ながら」
現状について説明を始めた。
「エニグマ、とはドイツ側が使う暗号機のことです。
我々はこのエニグマによる暗号を解読し、大西洋を初めとする桝目海域のどこにUボート(ドイツ海軍潜水艦)が潜むのか、その通信を傍受して解読し、ロンドンに、そして貴国を始めとする連合軍に情報を提供し続けることで莫大な損害を回避するのを可能としてきました」
そこまで告げると呼吸を整える。クールになれ。彼の胸中をどす黒い暗雲が広がり、ぐ、と言葉を呑んだ。
「しかし、本年二月、ドイツ側が大西洋と地中海に配属するUボートに従来の三枚ローターから四枚ローターのエニグマを支給して以来、暗号解読の深刻なブラックアウトが生じています」
ブラックアウト――暗号が解読できなくなってしまったのだ。もう何ヶ月も経過している。その間に沈められた船舶は、グラフの山が証明している。彼は毎日そのグラフと睨みあいをしてきた。それ以上に溜息を吐いてきた。彼は更にドイツの通信網について続けた。
「この四枚ローターによる通信網は、ドイツ側においてその他の水上艦や北海のUボートが使う海軍エニグマ通信網と区別するため「トリトン」と名付けられています」
しかし、と彼は言葉を切った。
「ブレッチェリーでは、このUボート作戦用暗号を「トリトン」ではなく、「シャーク(サメ)」と呼んでおりますので、今後この名称にて説明を失礼いたします」
トリトン、海の神の息子? 冗談ではない、ドイツ人のロマンチシズムに敬意を払って俺たちはこう言ってやる。クソッタレ、貴様ら血生臭いサメで充分だ。
「この「シャーク」通信網により、現在大西洋における配置の全体像は現在のところ不明であり、現在及び今後のUボートの動きを、確信を持って予測することはほとんど不可能といわざるを得ません」
真正直に告げた事実に、余計なことを、とばかり上司は顔色を失ったが、つくろったところでどうなる。
エニグマ情報を入手できなくなるのと同時に、Uボートに沈められる連合軍商船のトン数は目を覆いたくなる数字となっていた。
そして、その歯止めをかける今後の目処は全くもって立っていないのだ。
「ふうむ、なるほど。ありがとう、分かりやすい説明だった。確かに君の言うとおり、アメリカ沿岸部もどこから沸いて出るか分からないUボートに恐怖の海域となっている」
アメリカ側の将校が礼とともに言う。続けて口を開いた時、その目はイギリス側の代表者をまっすぐ見つめていた。
「私達はこれまで、君たちの言うとおりにしてきた。ロンドンの握るエニグマ(ドイツ軍暗号)解読情報によって輸送船団のルートを指定してきた」
アメリカ側将校は笑顔を崩さなかったが、彼はひやりと背筋が冷えるのを感じた。
「君たちのくれる情報の精度があやふやどころかブラックアウトしてもうどれだけだろうね?
私が運んでいるのは、君たちの食料であり粉ミルクであり武器弾薬、あらゆる物資だ。
輸送船団の安全性の確保は連合軍の義務であり、君たちがまともに情報提供出来ないというのなら、アメリカ側で独自に解読をする必要があるってことじゃないのかね?」
――くそう、俺に説明させたのは、わざとだな! いやらしいやり方しやがって。
「私たちなら、君たちご自慢のボンブ(暗号解読のための電動式機械)の生産だって、もっとスピーディーに大量生産できる用意がある。技術提供してもらえばすぐさ」
成果の横取りか、と彼はむかっ腹が立つのを感じた。アメリカ野郎め。ブレッチェリーの暗号解析員なら、皆同じ事を思っただろう。
言いたい放題のアメリカ側に、一方イギリス側は苦い顔だ。
年配の将校は、なぜか一番若い将校であるバーロウ卿に視線を送り、若手の将校はごく小さく頷いた。
その意を受け、年配の将校が一言だけ述べた。
「――考慮しましょう」
その後、まさに国家の存亡に関るところの貴重なエニグマ解読情報について、アメリカに情報を提供した場合のその保全についてなど(非常に疑わしいと思う)、話が機密にまで及んできたので、彼は早々に追い出された。
扉を閉める際に、『槍が』と不思議な単語が聞こえた。
しかし、すぐに扉はばたん、と重い音を立てて、彼は締め出されてしまう。
後々まで彼は思う。
何だったのだろう、あの若いイギリス将校バーロウ卿は。
他の年上の将校たちに何故か一目置かれているようで、しかしあまりにも若すぎる。
ほとんど喋らなかったが、彼こそが場を支配しているかのようであった。
あれほど若いのに――まるで、呑みこまれるような『重み』が卿を取り巻いていた。
何というのだろう。この感じは、と彼は首を捻り、適当な言葉を思いついた。
畏怖――それが一番近い。
しかし、悪い意味での畏怖ではなく、恐ろしさに近いながらもそう――もっとよい言葉を思いついた。
畏敬。
そうだ、妙な慕わしさを感じた。不思議だ。実に不思議だ。
まるで、以前イタリアを旅行した際に拝んだ【聖遺物】を前にしたかのような、不思議な畏れ。
そのように納得して解析部屋へと帰る彼及び彼らブレッチェリー八号棟住人が、ブラックアウト開始よりシャーク通信網を破るのには十ヶ月の期間を要することとなる。
そして、四十三年三月にも、また深刻なブラックアウトが発生し、輸送船団の商船が二十二隻沈められることとなる。
栄光は常に過去のものとなり、未来の栄光を掴むには泥を食まねばならぬのであった。
――一九四五年 イギリス ブレッチェリー
テレプリンター室。
翻訳を終えたドイツのサメ暗号文が若い娘達の指の間をすり抜け、ロンドンへと送信される。
『〇七一五時、護送船団の最終位置は、桝目海域xxxxに位置せり。針路四十五度、速度八ノット』
『○月□日、〇九四〇時、桝目海域yyyyにて、イギリス駆逐艦に接触せり、攻撃を受く。潜行しこれを回避』
作戦行動中のUボートからエニグマ暗号機により発信された解読情報の他、司令部から海上のあるUボートに当てた緊急指令と思われる奇妙な解読情報があった。
『作戦行動中止。直ちにキール軍港に帰港せよ』
イギリス海軍省では、このUボートの追跡を命じた。
傍受内容によれば、最初の作戦を放棄し、キール軍港に身を横たえることとなった本Uボートには次のような指令が下った。
『新たな作戦を与える、作戦名『青銅の箱』』
――一九四五年四月末日 ドイツ、皇帝の城ニュルンベルク城
ドイツのトップが銃身自殺したその日。米軍第七軍第四十五師団『サンダーバード』が、占領したドイツ、バイエルン州第二の都市、ニュルンベルクにおいて、ドイツ軍の占有財産を発見する。
この都市は、第二次世界大戦前は中世の建物が最善の形で保存され、かつての繁栄の面影と落ち着いた佇まいを色濃く残した古都であった。
しかし、そのドイツ史のシンボル性故にナチ党大会開催場所として選ばれ、結果連合軍の集中的な空爆を受け、町の九十パーセントを破壊された。
そしてこれからは、ナチ戦争責任者を追及する連合側の「ニュルンベルク裁判」が行われることとなる。
現在、ほとんど廃滅させられた建物を軍用ジープで抜け、報告を受けた将校と、報告した大尉の会話を抜粋する。
「皇帝の城<カイザーブルク>」と呼ばれた中世起源の無骨なニュルンベルク砦城地下トンネル――
「大尉、これかね?」
「は。これらは全てオーストリアのホーフブルク宮殿から運び出された宝物のようです。いかがしますか?」
「とりあえず、全部運び出してくれ。米軍の管理下において、いずれ機を見て正式な立会いの下、オーストリアに返還する必要がある」
「はい。しかし、【これ】の真贋については、現在専門家からは、レプリカではないかとの疑いが――」
「ふむ。ドイツ軍は、本物をどこかに運び出した可能性があるな」
同年、五月八日、ドイツは正式に降伏した。
――同年、七月十日未明、南米アルゼンチン
不明なUボート
ドイツが降伏してから二ヶ月も経って、アルゼンチンのマルデルプラータ港に、Uボート(独海軍潜水艦)が不気味な威容を露にした。
このUボートは、二ヶ月の空白の航海の後、アルゼンチン当局に対し、投降を申し出た。
終戦後の空白期間並びに乗組員の奇妙な特徴から、連合国特別調査団が派遣され、臨検調査に当たることとなった。
「……このU―8XXには、主に不審な点が三つあります」
以下は、特別調査団派遣員の報告である。
「第一に、艦長以下乗組員の平均年齢が二十代という異例の若年層で構成されていおり、なおかつ皆身寄りがないものばかりでした
第二に、不自然な投降のタイミング。終戦後二ヶ月間の空白の航海につきましても、航海日誌が作成されてはいますが、偽装記録である可能性もあります。
また、第三に、艦内には潜水艦では火気厳禁であるにも関らず、大量の煙草の吸殻が発見されております」
乗組員の口は固く、予断は禁物ではありますが、と前置きして報告は続いた。
「このU―8XXが何がしかの特殊任務にあたり、乗組員以外の何者かを南米に運んだと考えられます」
尋問を続けてくれ、と命令があった後、アメリカ海軍にある品物が届いた。
「これは……一体どこで手に入れたものだ?」
ためすがめつ皮手袋の上にじゃらりと垂らしたのは、明らかに海外から運び込まれた年代ものの財宝の一つであった。
「アルゼンチンのブラックマーケットに流出したものです」
「ふうん。尋問内容とすり合わせれば、U―8XXが運搬したものは、『人』と『金』と『財宝』のようだな。終戦後ドイツ高官がUボートで密かに南米に亡命しているという噂も耐えないし……ともかく、捜査を続行してくれ」
「は!」
しかし、こんないかにも足がつくものを早々に流出させるとは、ずいぶんお粗末だな、とアメリカ海軍将校は首を捻った。
まるで、わざと流して、見つけてくれとでも言っているみたいだ。
その後もアメリカ海軍の元には、様々な場所から玉石混交の大量な情報が集まった。中でも、幾多の情報の中に、三つ関連付けられると思われるものがあった。
一つは、乗組員の尋問を指示していた不審なUボートの運んだと考えられる『人物』の件。
二つは、調査続行を指示していた、南米のブラックマーケットに流出した『財宝』の出所。
三つは、ドイツ現地から、現存する『Uボート(南米にドイツ高官を亡命させるのに一役買っているらしい)』について、目撃情報。
一つめと二つめは、線でつながった。
Uボート8XXは、ドイツの重要人物を密かに南米へ護送する任務を請け負っていたようだ。
この南米入りしたドイツ高官が、ブラックマーケットに流出させたのが、ドイツ帝国の財宝の一つだったのである。
ドイツ高官を逮捕することはできたが、同時に面白い情報が入った。
ドイツ帝国の財宝は、複数の『青銅の箱』に詰められ、別のUボートで終戦直前に国外に運ばれたというのだ。この高官からはそれ以上詳しい情報は手に入らず、信憑性についてはかなり曖昧である。
また、三つ目も、関連してつながった。終戦後もこうした秘密任務に従事するUボートが現存していることについて、危機感を抱いた海軍上層部が更に調査をさせたところ、ドイツ現地から思わぬ奇妙な情報が入ったのだ。
『青銅の箱』
逮捕された高官が苦し紛れに漏らしたともとれる架空の存在と思われた例の『青銅の箱』の目撃情報である。
ドイツのキール港より、SS隊員が『青銅の箱』をUボートに積み込んでいたのを目撃した、という人物が発見されたのだ。
これで三つがトライアングルにつながった。
しかし、このUボートのその後の経路については不明であり、ここで手詰まりである。
手詰まりとなった上に、これにばかりかまけていられない以上、担当者の海軍将校は他の業務に忙殺され、やがてこの謎の『青銅の箱』はすっかり埃をかむってしまうことになるのだった。
――二×××年
××は手元に書類を掻き寄せて、興味深々に一枚一枚目を通した。
いつの間にか時間を忘れてのめり込み、現在は解体されたブレッチェリー・パーク関係の資料をぱらぱらとめくっていた××はある一点で目を止めた。
エニグマ。
シャーク通信網。
ウルトラ情報(独暗号解読情報)。
点在していたばらばらの情報が一本につながる。
それは固形物が一瞬で液体に変容するような劇的変化だった。
別の山に分けてあった海軍情報と突合わせ、確信した。間違いない。
……確かに、このUボートがキール軍港を出て、南米沖まで航海を続けたとすれば……これはイギリス海軍の駆逐艦がUボートとランデブーした日付と合うな。
イギリス海軍が、Uボートを自沈させたのは、ランデブー航路から見て、この地点か?
空振りに終わるかもしれないけれど、確かめに行く価値はある。
××は資料を手にしたまま沈黙した。
Q.これは終わりの始まりだろうか?
A.これは終わりではない。これは終わりの始まりですらない。
しかし、あるいは、始まりの終わりかも知れない。
Churchill November 10, 1942




